2014年4月13日日曜日

わたしたちの信仰

父の遺稿第三講には 私達の信仰について述べられています。

これを読みますと父の信仰があの若き日に「主イエス」を著した頃からまるで定規で引いた一直線のように一つの信仰で貫かれていることが分かります。
それは『キリストの死と甦り』の信仰です。
そしてこの講ではそれを信じることの真の意味が説かれています。

父は三十代の頃『キシオン川の奔流』と題して物語を記しました。

これはキリスト教誕生の物語で、父は「私の70年の信仰の旅がこの短い物語から生まれている」と語っています。
「お前の殺したナザレのイエスは、蘇って俺たちと一緒にいる」
この人間の知識や、知恵を超えた歴史の中の事実、これはキリスト教発生当時、 キリスト教という言葉はなくて、世界のあらゆる宗教と区別して、「福音」と呼ばれたのです。
世界の「宗教」が人間の最上の知恵によって生み出されたのに反して、キリスト教は「神様が歴史的実在のナザレのイエスによって成就された驚くべき技の信仰である」と、父は語っています。

興味深いエピソードがあります。

父は、青年時代、大学生活の最初の休みに、家に帰り、父親に「大分、キリスト教も分かってきたから、キリスト教を土台にして、色んな宗教の良いところを取り入れて、「八代教」というものを創ってはどうかと野望を燃えて語ったそうです。
そのとき、祖父は聖書の中の
「キリストの故に、私はすべてを失ったが、それらのものを、糞土のように思っている」(ピリピ人ヘの手紙3:8) の箇所を静かに開いたそうです。
祖父が、佐竹藩、公の学問所であって御学館の館庁の長男であった身分も捨て、浄土宗の安念寺の檀家総代の家も投げうち、キリストにひざまずいたということは、確かに聖パウロの心境と同じく、キリストを得たことによって失ったすべてのものを、糞土の如く思ったのであろうと語っています。
八代教を創る、これは父らしいエピソードですが、私が育った頃には、あまり語られることのなかった祖父が、父の中にゆるぎない信仰の礎を築いたことがよく分かります。
「なるほど宗教ならば私にも作られるでしょう。しかしそこには命がありません。神が驚くべきことを成し遂げたという事実がないのです。・・・・・・キリスト教の信仰は人間の努力、人間の英知でつかみ取るものではなく、人間の絶望の真中に、神が襲い給うものです。
つまり私どもの信仰は神がイエスというナザレ人をしてこのような驚くべきことをなされたということ、このグッドニュースに覆いかぶされることです」と父は語っています。 

信ずるということ 

昭和9年ごろ 父は神戸聖ミカエル教会で牧師として働いていました。
そこに 東京の神学校を出た有能な青年が、あちこちの主教や首脳部と喧嘩をして、とうとう聖ミカエル教会に父の補佐として赴任してきたのです。
素晴らしく有能な青年で、信者からは慕われ 月報を書かせると、豊かな才能を発揮する。父とその青年はすっかり肝胆相照らして、半年の働きを続け やがて復活日を迎えようとしていました。受苦日の三時間礼拝を終え、復活日を明日に控えた前夜、歓談の折、突然彼はえへらえへらと笑い出し、「商売とはいえ、今日までイエスを復活させるのは容易じゃないですね」といったのです。
驚いた父が、「お前、主イエスの復活を信じないのか」と聞くと
「オヤジさん、古いよ古いよ、そんなことは先生と僕の間でしょう。殻を脱いで裸になって話しましょう」というのです。
それから二人は夜の明けるまで話し合ったそうです。遂に青年は父に抱きつき、
「ああ、救われました。今まで僕は辛かったのです。どうしたって信じられないし、馬鹿らしいし、でも今は、本当に信じられるようになりました。これから真剣にバリバリやりますよ」
そうして彼はまたもとのミッション所属の伝道者として迎えられて、某教会に赴任して行ったそうです。
父がこの話を記したのは いかにこのキリストの死と復活という「歴史的事実」を信じることが困難であるか、そして主イエスを信じるものと、信じないものとの間には、その行動に違いがあることを伝えたかったのでしょう。 

さて父は若き日に「主イエス」を執筆しましたが、それは日独書院の懸賞論文でした。第一位に入賞した人は 主イエスの復活を賛美の頌のようにぼかしていました。
審査員の一人が後に父に話したそうです。
「惜しかった。きみのは素晴らしかった。落ちたのはあまりにも主イエスの復活を高調しすぎたことだ」
 
時代は、主イエスの復活に疑念を抱く自由主義の時代になっていたのです。

歴史的人物、人間イエス、あるいは抽象的にキリストを見つめたり、処女マリアの聖霊降臨を疑ったり、昇天の主がぼかされたり、法王職や主教職に対する批判が叫ばれる教会変革の時代に、根底から主イエスの復活を見つめなければならないと父は語っています。
主イエスの復活は、信仰告白で単に「三日目に蘇り」と唱和するものに終わってはならないのです。
キリスト教が単なる宗教でなく、神の驚くべき福音であり、グッドニュースであるということ、それは 今、現実にある教会制度を持つ宗教団体の中にあって、キリストの蘇りを信じるものが、違った人間として行動するのでない限り、イエスの復活を信じようが信じまいが問題となりません。現在、若者達に変革が叫ばれている教会に在って、残るものはイエスの復活を身に帯するものだけに限られるのです。 

それでは イエスキリストの復活を身に帯するとはどういうことなのでしょう。

唯一の救い主

世の中にはなんと多くの救い主が存在していることでしょう。もろもろの宗教の教祖たちとイエスとの関係はどうなのでしょうか。
「神は昔は、預言者たちにより、いろいろなときに、いろいろな方法で先祖達に語りかけられたが、、この終わりの日には、御子によって、私達に語られたのである」
このヘブル書の作者がいうとおり、神は終わりの日には主イエスによって語りたもうのです。それが主イエスの蘇りです。しかし このイエス様の生涯、死と蘇りはとうてい理性によって信じがたいもの、人間の思考を飛び超えているものです。ですから これは人間がその知恵で知ることの出来ないもので、神様の驚異的な語りかけ、神様に襲われてはじめて信じうるものなのです。
このようにキリスト教は徹頭徹尾、超自然的な信仰であり、福音です。
けれどもまた、このキリスト教、この福音ほど現実的なものはないのです。神による人間救済の道、神の驚くべき御業、それは二千年前(歴史をB.CA.Dに切り離したとき)という「時間」と、ユダヤのベツレヘムという「空間」において歴史的実在者によって成就されたのです。
これを他の宗教と比較してみますと、あるものは時間と空間を越えた抽象的観念であり、一方はあくまでも現実の功利に基づいたものなのです。

現実的なもろもろの信仰

人が人として生きるには意識の違いがあるにせよ、何かを「信じる」ということによって営まれるものです。人間はその生活の起居から就寝まですべてが無事であることを信じて生きているのです。
同じ信じ方でも『そんなのは当たり前だ』というのと『神様の御摂理で』というのとでは違いが在るのです。そして『当たり前だと信じた』ことが人生ではしばしば『むなしい』ものとなります。そこに不動の信仰を求める人の心が、時代を超越した願いとなり、悲願となるのです。しかしそれは単に観念的なものであっては意味を持たないのです。
それは正しく現実を踏まえながら、それを乗り越えた不動のものへと導かれねばならない。それがナザレのイエスなのです。
このようにキリスト教は分かるものを踏まえて、人知を越えた分からないもの、上から襲われねばならぬものへと昇っていくのです。 

「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び分かたれ、召されて使徒となったパウロからーーこの福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば死人からの復活により、御力を持って神の御子と定められた。これが私達の主イエスキリストである」(ローマ人への手紙1:1-4)

下から上へ昇る道

このようにキリスト教は人知を越えた超自然的な信仰であり、理解することも出来ない絶望の中で、神が襲い掛かることによって与えられる信仰なのです。それは神の恩寵であり人間の回心です。
アメリカの心理学者 ウイリアム・ジェームスは それには二つの型が在ると語っています。
ひとつは ワンスボーンと呼ばれ 素直に素朴に信仰し、教会の使徒信教を唱え、長い間、信仰生活を築くもの
もう一つはトゥワイスボーンと呼ばれ、聖パウロ、アウグステイヌス、ルーテル、ニューマンなど劇的な回心が起こった事例です。
時に劇的に、時に静かにこれらの回心は受洗礼者にも未信者にも襲い来るものなのです。
キリスト教が「死んで蘇る」「罪に死に義に生きる」と伝えるのは、洗礼式の時のみならず、私達が日々信仰生活の中で、この自分に死んでキリストに生きる、十字架と復活の生活が続くということです。
それは科学的に証明される合理的なものでなく、またなるようにしかならないといった偶然的なものでもなく、造り主なる神様の摂理にすがりながら、自らに死んで、神様の聖旨に生かされていく、其れがクリスチャンの生活なのです。
淋しさにある時に慰められ、絶望の淵にある時に良き羊飼いである主が襲い掛かってくるという生活なのだという父の言葉の中に 自らは多くの人の淋しさを慰め、絶望を希望に変えて来た父のえも言われぬ淋しさ、自らの生涯をささげた教会と教育事業の造反や団交という混乱に対する絶望にあって、襲い掛かる神の恩寵にすがり救われた父の姿が感じ取られてなりません。