2008年9月30日火曜日

父の苦悩と神の栄光

1967年(昭和42年)私は立教大学を卒業し、神戸に帰りました。
当時高校二年を終えた弟(武)は春休みでした。 
弟は肩の痛みを訴え、私も同じように筋肉痛があったので二人で近くの外科医に行き、筋肉注射をしてもらいました。筋違えか肩の凝りほどの軽い症状だと考えていました。 私はいつの間にか痛みが消えたのですが、弟は尚痛みが取れず不審に思い始めました。。
弟の病気は 進行性の筋萎縮があり、病名は不明、ただならぬものであることが分かりました。
弟は姉、敬子を連れて再婚した母、富美子と父との間の一粒種でした。
弟が生まれてからは 父は公務多忙で子育ては母に任せておりました。子供は神の御手によって育つものと信じて疑わなかったからでしょう。 
突然の不明、そしてFatalな病の知らせに父は愕然とし、その苦悩は計り知れないものでした。 
これまでどのような苦難に面しても 果敢に立ち向かってきた父が 愛子を襲った難病のまえに 一人の父親として 弱さをはじめて感じたことでしょう。
しかしこの苦悩によって私は父が信仰を深め強め、神との真の信頼関係にいたったように思います。
イサクを燔祭としてささげることを命じられたアブラハムの苦悩とそれを超える神への信頼を体得したのではないでしょうか。
当時、激務にあった父は入院中の弟を見舞うこともままならず、弟に当てて手紙を書き、人生を、神を、キリスト教を説きました。そして、それは一冊の本として出版されました。その中には また うめきにも近い苦しみを 天使ガブリエルとの対話として表しています。 これは愛する者の死の恐れと苦悩、そして、ゆるぎない信仰を表した美しい抒情詩です。 当時の私は何故 今ほどに感動しなかったのか、、、、当時 まだ 苦労の経験もなく精神的にきわめて未熟であった私には 父の苦悩もその苦悩から生み出されたこの書物の価値も理解できていなかったように思います。
この書を手に出来ない人のために 私なりの解釈と理解で 内容を紹介したいと思います。

「今を生きる」 --病めるわが子へ送るの文ーー

病気の記録1967年3月旬、中右頸部から肩にかけて激痛。
右胸部と健康骨周辺に筋の萎縮、右手の指にも運動障害。
明石市民病院整形外科に入院、頚椎牽引療法を受ける。
一週間目ごろより左ひじ間接から手先への放散痛とひじ関節、手関節の運動障害も発祥、進行性のものと診断される。
精密検査、診断の目的で京都府立医科大学整形外科を訪ね、5月24日 入院。
入院時の病状は肩甲部周囲の筋肉は萎縮しており、右前腕部の筋肉も萎縮し、橈骨神経の走るところを圧迫すると疼痛を訴える。右手関節の自由運動は全く不能、親指、示指の運動も障害され、左手指の運動も正常ではない。腱の反射も減弱、握力も右ゼロ、左10キログラム、また 知覚鈍磨、知覚過敏などの知覚障害を示す。
頸部脊髄性疾患と診断。
検査とそれに平行して対象治療を施すが、1.2ヶ月は病状は進行し、麻痺は進んだ。
2ヵ月後、突然病気の進行は止まり、左側のひじ関節運動が出来るようになる。左側手関節の背骨屈接運動が出来るようになる。機能回復の始まりである。

当時、父は人生の円熟期ともいえる頃であったと思います。
戦中、戦後の苦難を経て 聖公会は安定し、教会の活動は充実、世界の聖公会関係者の来訪を受け、様々な教会会議へ出席していました。 また 教育事業も充実し 立教、桃山、松蔭の各学校の発展して参りました。 夢であったキリスト教教育による男子校として八代学院も設立されました。 日本のキリスト教者の代表として ラジオやテレビで放送されたり、新聞、雑誌に掲載されました。 その父を襲った突然の愛児の奇病。原因も病名も不明、ただ それがただならぬ病であること、そして命をも奪われるものであるかもしれないと言う恐怖におののきました。
父は 病床の愛児に付き添う母にこういっています。
「迷ってはいけない。----生も死もただ神様の聖旨だもの。---たとえ武が召されても、神様が一番良いことをなさってくださったとみんなが信じられることだけだ。 ハレルヤと叫んであいつを送るよ。
こうお前に説教しても、俺自身は迷いに迷っている。深夜神様と喧嘩しているのだ。」
母が病院に付き添う間、父は家に残され 夜遅くまで仕事をし、台所に立って好きな料理を作りました。そしてしばしば自分に現れる天使ガブリエルと対話をしました。  
父には生母との間に十人の子供(次男虔二死去)、育ての母との間に二人の子供がいました。 それは奇しくも聖書の中の聖ヤコブと同じで 自ずと聖ヤコブと自分が重なり合いました。
ーー子らと娘らとは皆立って彼を慰めようとしたが、彼は慰められるのを拒んでいった。「いや私は嘆きながら陰府(よみ)に下って、わが子のもとに 行こう。」こうして父は彼のために泣いた。(創世記37章35節)
ヨセフを失った ヤコブのように 死に直面したわが子を失う恐れに父は苦しみました。
生きることも
死ぬることも
人の世なれば
ただ愛によってのみ支配される。
愛されていない人には
生きることがありえない。
愛する者のない人には生は意義がない。
愛する者を持たない人には
死は何ものでもない。
針もなければ、刺もない
ただそれまでだ。
ーーーーー
だから 
死というものが齎す最大の苦しみは
愛する者の死を見つめることだ。
まるで胸をえぐられるようだ。

最後に父は 一人息子を燔祭として捧げるように神に命じられたアブラハムを彷彿します。
たった一人の愛児を 燔祭として捧げることを命じられたアブラハムは イサクを連れてモリヤの地に向かいます。薪を背負ったイサクは 「父よ 火と薪とはありますが、燔祭の子羊はどこにありますかと尋ねます。
「子よ、神自ら燔祭の子羊を供えてくださるであろう」と答えたアブラハム。
今まさに剣でわが子を殺めんとするとき聞こえた神の声、
「アブラハムよ、童に手をかけてはならない。貴方の子、貴方の一人子をさえ私のためにおしまないので 貴方が神を恐れる者であることを 私は知った。」
親子が 神の声におののいて 
目を開けたとたに
角を藪にかけている子羊がいた。
全生涯を神にささげた父は この受難によって アブラハムの信仰をわが身に置き換えたのでした。
       ***************


「病める若人に 送るの文」 これは 病める息子に宛てた父の手紙です。
その内容を 要約してお伝えしたいと思います。

第一信
武へ
病に倒れたときに陥ってはならない二つのことひとつは 人生、なるようにしかならないと自暴自棄になることもうひとつは 医学や合理主義に頼って傲慢になることあるべき態度は 自分はだめな人間だと謙虚な心を持つまで成長することそして神様は耐えることのできない艱難をおあたえにならない、必ずそれを克服する力もあたえてくださること・・を信じること

第二信
人間がこの世に生を受けたのは、本人の責任ではない。父と母の責任である。 しかし父と母も自分らの力では、子供をこの世に生まれさせることは出来ない。それはただ 神様の力と摂理によって可能となった。
ところが、人間はいつか死んでいく。人間が死ぬという事は、自分の力の限界を超えたことで、神様の御業である。
人間の誕生、人間の死、それは人間の知恵と力を超えたもので、神様以外どうにも出来ないことである。
そこで人間の責任は「今」にある。 誕生と死の中間が人間に与えられた人生への「自己の挑戦」である。
こう考えていくと 二つのことが 問われてくる。
一つは 人間をこの世に生まれさせ、人間をこの世から取り去っていく神様とは一体どんな御方か。
二つは 誕生と死との間を生きるということはどういうことか。

第三信
神を見出す方法
神は説明できないものである。 人間が説明できる神なら、本当の神ではない。
神を知るためには 人間はまず 神を知る途のないことを 悟らなければならない。神を知る力も知恵もないことをわきまえなければならない。
それは
第一に 人間の言葉の不完全さのため
第二に 人間の知恵の未熟さのため
第三に 神は至聖であって どれほど優れた人間でも神の前には    等しく罪人であるため
では どのようにして 神を見出し、信じることが出来るのか。
これは唯一、神のほうが 自身を示されること、一枚一枚衣を脱ぎ自身を示してくださること、それよりほかにない。 これを啓示という。

第四信
人間は誕生と死ーともに自分の力を超えているーの中間の時間を生き抜く責任と決断を要求されている。
時間は過去、現在、未来と続いているが、過去は決してやり直すことの出来ない厳然たる権威を持っている。
一方未来は止まることなく現在となり、それは素晴らしい吉報であるかもしれないし、悲惨な災難であるかもしれない。この消すことの出来ない厳粛な過去と 巨大な悪魔のような未来との間の現在だけが 人間が歴史(時間)の中で 自分の決断と行動の責任を負わされているのだ。つまり「過去」と「未来」の間の「今」という時にどういう一歩を踏み出すかと言う至上命令に動かされている。
このような責任を負わされている人間は どのように生きているだろうか。
一つは過去のデーターを分析して判断する 合理的、科学的な生きかたである。 これは必ずしも良い結果を生み出さない。
もう一つは 「迷信」に頼ることである。これは 高ずれば「迷信」に支配されることになる。
過去、現在、未来にはっきりと意義を与えているのはイエス・キリストである。

第五信
では人間は「今」をどう生きねばならないのだろうか。
1 生と死は同じ時、同じ場所で一致しなければならない。
 人生において人間はこの瞬間よりほかに自分のものはないのだから、その瞬間に起こるであろうことは、生と死とを同時に受け取らねばならない
2 この生と死を同時点で受け止めた者のみが、瞬間を永遠の  時に引き伸ばしうる。 この瞬間を永遠に引き伸ばすという  ことが 世に克つ勝利である。

第六信
啓示は 如何に表されるか。
啓示は
第一に 自然界を通して
第二に 歴史を通して
第三に キリストを通して人間に表された。

第七信 
自然界を通して表される絶対者、神。
人間は 大自然の畏怖を目にした時、その創造主である神を感得する。自然は神の姿を表している。
その時
第一にこの大自然の創造の技を通して神の偉大さを知る。
第二に神は偉大なるものと同時に 小さきものを愛でたもう。
第三に造りた給うたすべてのものをアダムにお与えになった。
すなわち この大自然は神の造られた人間の人格に包まれて初めてその栄光を表す。
神の御心はこのように自然界を通して表された。人類は この自然界を通して 神の御心を行う使命が与えられている。

第八信
歴史を通して表された神の啓示
歴史における神の啓示 それが聖書という物である。
神は特別にユダヤ民族を選び、教育し、「時満るに」及んで 全世界の血の果てまで御自らを表し給うた。
神は全世界という田の中でイスラエルという苗代を作り 一つ一つの出来事に意義を与え、神の治め給うた世界の歴史にはっきりと意義を与えられた。
聖書は創世記に始まり、天と地の創造、罪の始まり、戦争の問題に続き 聖者アブラハムの物語になる。
カルデアのウルという律法のない町の遊牧の民、アブラハムは自己の良心と神に導かれ 天幕だけをらくだに乗せて聖戦の旅に出る。  世俗の世界よりもっと高い世界にあこがれて旅するアブラハムは 「神と共なる旅人」であり、これは神の聖旨が「神とともに生きる」事であり 人間の真の幸福は「神とともに生きる」ことである事を示している。

第九信
聖書の物語は アブラハムの曾孫ヨセフによって為されたイスラエルの民のエジプト移住、そしてエジプトに移住したイスラエルの民がモーセによって引率されて 故郷パレスチナに帰る歴史へと続く。その間、律法(十戒)が発布され パレスチナまでの異教徒との戦い イスラエル民族の苦悩を描き、ここにイスラエルは神の預言者によって治められるのでなく政治は民衆によって選ばれた王に譲られるようになる。弟子のダビデに嫉妬した最初の王サウルは ダビデを殺そうとし、ダビデはユダヤの国から逃亡する。
ダビデは「私は今、ユダヤの国を離れて異国にあるのだから、ユダヤの神様、エホバを拝めない。これが不幸です。神様と一緒にいられない。」と嘆く。これは一民族が一人の神様を拝むという「拝一神教」の立場である。
その後紀元前926年、ソロモンの栄華の治世も過ぎ、王国が二つに分裂し、敵に襲撃されイスラエルの民は悲しい捕虜としてバビロンへと幽閉される。
祖国を負われた民に 神は預言者エレミアを通して
「私は私の律法を彼らのうちに置き、その心に記す。 私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」と伝える。つまり 祖国を離れ、神殿もなく、いけにえをささげる祭司もいなくても 神様とともにいることが出来るのだと教えたのである。
そしてイザヤが現れ、 「どうだ われらの神様は、 全世界を治め給うお方だ」と言う。
ここで初めて 人々は宇宙全体を支配され給うエホバの神様の御身姿を仰ぎ見た。
しかし天地万物の造り主、歴史を支配したもう雄大な神様を仰いだとたんに ユダヤ民族は絶望に襲われる。神との断絶を実感するのである。
この霊魂の底からの叫びから 主イエスキリストの降誕となるのです。

第十信---第十四信
「神は、昔は、預言者たちにより、色々な時に、色々な方法で、先祖達に語られたが、この終わりの時には、御子によって私たちにかたられたのである」
神は歴史を通して御自身を現わされたが、イエス・キリストにこそ神は自身を十全の意味であらわしたもうた。
すなわち アブラハム、モーセ、サムエル、ダビデ、アモス、ホセア、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者を通して ご自身を表されたが、これからは主イエスによって神を知ることが出来るとヘブル人への手紙の記者は語っている。 
ではそのイエス・キリストとはどんな方なのか。
近代文化の世界では自由神学が起こり、人間イエスの教えや、人格が強調され、イエスの復活から目をそらすような傾向があるが、イエスが死に勝ち、よみがえり、今、私たちとともにいるという信仰以外に、この人生を強く、正しく生かしうるものはない。
このイエス・キリストだけが、生と死を一体として、人類に生に克つ力と、死に克つ力の二つを一体とされた。 十字架で終わりでなく、復活されたと言う事実が人類の生と死に意義を与えているのである。

イエスの復活
イエスの復活を 人に説くことは難しい。
マーフィールド修道院で出会ったポール・ブルと言う教授は 「本当のことは この世の経験からでは分からない。火星からやってきたと思って、この地球の歴史と現在の生活を見つめてくると、主イエスの十字架と復活が分かってくる」と教えられた。
新事実というものは、人間の経験から説明することは出来ない。ただ主イエスの復活に生きているもの生活態度が、唯一の証となろう。
人間の理解しうる範囲は狭く小さい。
その昔、妹は座布団をたたんで背中に乗せ「ねんねんころり」と遊んでいた。座布団を赤ちゃんと想像できる子供の崇高な想像力ならイエス・キリストの復活も分かるのかもしれない。
過去二千年の歴史の中で最大の事件といえば カルバリの山上に静かに十字架上に消え去ったかに見えた主イエスが、三日目の朝になって、墓から消え、四十日の間 弟子達に、ペテロに、マグダラのマリアに、エマオ途上の二人に、ガリラヤ湖畔の多くの人々に、遂に五百人以上の人にガリラヤの山上で現れ、人々の見ているうちに昇天されたと言う事実であろう。
この歴史上最大の出来事は 私たちの知性で説明できるものではなく、歴史を見ることによって理解される。
安息日は土曜日から日曜日に変わり、恐れおののいていた弟子達が立ち上がり、キリストを伝える者となり、キリスト教は300年を経ずしてローマ大帝国の国教となり、その間の迫害の血は宣教の種子となった。
この主イエスの復活の生命に生きることが
1) 生と死を一つにしうる生命力を生み、
2) どんな困難な 自己に不利な条件の時にも正しいこと、善いことを行う力を与えるのである。 

第十五信ー十六信
人間の死について
人間は死を予期しては生きられない。
死も生も「ゆだねる」心でなくてはならない。
その「ゆだねる」相手が、十字架の死から 光栄の復活を勝ち得た主イエス・キリストだ。 その生命を受けることで 生と死を超越して「ゆだねる」事が出来るのだ。
すなわち「限りなき」命というのは、この現世から続く命である。現世と来世は一つだということだ。
人間は赤子の時から 求める物が年ともに変わって行く。同じように来世には そこに備えられた 本当の生命的な楽しみがあるはずなのだ。 それは「祈る心」なのだと感じている。
来世への希望
1 永遠の神の生命に連なるものは、永遠に生きる。
  永遠の命を領有する私たちは、永遠に神とともにあるのだという確信を持たねばならない。
2 永遠の命につながれている私たちは、神が自分に一番良いことをなさっていると信じること。
3 死ぬということは 教会では 永遠の命に入ることだと教え  ている。
4 死に意義を与える。 これは自分がそうするのでなく、神が  させるのだ。
5 イエスの教えは 来世にも 霊的進歩があるということ。

第十七信
これまでの話を踏まえてこの人生をどう生きるかを考える。
現代における宣伝活動と 単純な合理的な生活態度は 大きな間違いを犯しかねない。
キリスト教はつかみ所のない神を信ずるのであるから 自分の属するどんな小さな社会でも、つかみ得ないという畏敬の心を持つ時、そこが神の国となるのだ。
日本人のキリスト教の受け入れ方は ともすればイエスの高潔な人格と教訓が強調され イエスの生涯を見つめることをわすれる。キリスト教は文学的教養として 主イエスの教訓を愛読するのではなく、また 哲学者のように神の存在を理解してもキリストによらなければ神への思慕は生まれないし、神への愛情、生活の潤いが生まれてこない。
新、旧約聖書には、天使が神の御心を体して、人間の生活を指導し、保護している。
悪と戦う聖ミカエル大天使、キリストの母までも教えを乞うたガブリエル、福祉事業の発端である聖ラファエルの病人への奉仕、これらが 人間の世界から 誤謬、誤解、誤診を防ごうとしている。
平和を望んでいる世界の人間が、人類の歴史を学べば、戦争の歴史を見る。学問の世界には、絶えず誤りがある。しかしそれが進歩を生む。教会は真理を解いているつもりでも、教会の歴史は異端の歴史となる。医療の世界でも誤診がある。教会も、学問の世界でも、医療の世界でも 人間が神の前に 自己の力の限界を感じることを知ることにより、主イエスによってのみ、真理の道は拓かれ、罪よりの救いの道へみちびかれるのだ。

最後に
武よ、
自分の生涯は この信仰だ。
ただひたすら主イエスに従うことだ。 その時にイエスの教訓も私のうちに生き、信徒や未信者に説きえない苦悩を神にささげ、絶えず友のために祈り、神が 私の愛する一人一人にこの自分の与えられた素直に生きる信仰を、それらの人に襲い掛かってくださることを念願しているのだ。
「貴方は心理を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努め励みなさい」(テモテ2 2章15節)
畏敬の心を持って余生を、主イエスと祖国の民衆に仕えよう。

      ***************
余命二年といわれた弟、武の病は奇跡的に回復いたしました。
それが父の血の出るほどの祈りと周囲の多くの人々の愛による奇跡であることを疑う人はいないでしょう。

 

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