2008年9月30日火曜日

八代斌助 その生涯

はじめに・・・・

それらの本は埃をかぶって書棚に眠っていました。あるきっかけがあってわたしはそれらを30余年ぶりに手にしました。人生の秋をしょんぼり歩いていたわたしに それらの本は電撃的衝撃を与えました。それはわたしの父、故八代斌助の著書と彼を知る人々の回想の記録です。わたしは末娘、その末娘が還暦を越える歳になったのですから、父を知る大方の人はこの世を去りました。そしてもう数十年もたてば父を知る人は皆いなくなるでしょう。これらの本は絶版であることと一般書でないために 書店の店頭に並ぶこともなく 父の壮絶な人生と人への「愛」はそれを知らない人に伝わるすべがなくなります。 わたしは何らかの方法でそれを伝えたいーーその一心でこのブログを立ち上げました。父を語るには わたしはあまりに小さき者、関係の方々からは顰蹙を買うことになるかもしれませんが、あえて決意いたしました。ブログという性質上、気楽にまた 多くの方々からのご意見をうけながら書き綴っていきたいと思っています。                 八代和子                                                                                                                

八代斌助の著書と関係書

父、八代斌助は終生文書伝道に力をつくした人でした。父の存命中はその重要性に気づきませんでしたが、父の死後37年の年月を経て今それらの本を手にしてみると、その意味の大きさを痛感いたします。文字は時間と空間を超えます。 父の魂とその生き様はそれを手にする者に時間と空間を越えて伝えられていくのです。今、ITの時代であることを考えるとその努力を惜しまないものがいればそれは世界中どこにいる人にも伝えうるのです。主な著書は下記のとおりです。「主イエス」「九十九の羊は」「聖書について」「聖書の話」「聖歌の話」「聖歌と人生」「戦後の世界を巡りて」「ああ濠州よ」「ランベスあとさき」「現代に欠けるもの」「戦後15年」「今を生きる」「病床に語る」「八代先生教話集」これらの主なものをまとめた「八代斌助著作集」 全八巻そして毎日骨身を削って書き続けた個人の月刊誌「ミカエルの友」 全183号 などです。また 逝去後各方面のかたがたから寄せられた回想録、「回想の八代斌助」はさまざまな方と父のかかわりを示すものとして貴重な書です。

八代斌助の生涯

父八代斌助を伝えるために まず その生涯を簡単に紹介します。
八代斌助は 1900年北海道函館に日本聖公会牧師の次男として生まれた。 立教大学予科に進学したものの中退し、中国山東省青島に行き 世俗社会での仕事を体験し、その後旭川歩兵隊に入営して陸軍少佐に任官した。 その後は聖職者になることを志し、1920年 日本聖公会神戸教区の伝道師補に任じられた。1927年 バシル監督から司祭に叙任され、イギリスにわたってケラム神学院で学ぶ。留学から帰国して後は、牧界にいそしみ1939年バシル監督の後をついで主教に聖別され その後、1970年10月10日,癌性腹膜炎のために永眠するまで 半世紀にわたり宗教および教育活動に精力的な働きをした。戦時中、軍部や政府の圧力で日本聖公会が日本基督教団への合同を強要された際に、迫害に耐えて日本聖公会を守ったことは有名である。戦後は、民間人としては戦後初めての海外渡航者として戦勝国との和解のために諸外国を歴訪し、日本の信頼回復のために大きな働きをした。またエキュメニカル(教会再一致運動)を推進し、生涯の最後の仕事が大阪万博でキリスト教がひとつになったパビリオン、キリスト教館を出しその館長を勤めたことは象徴的である。戦後の働きで忘れてはならないのはキリスト教精神に基づく教育活動に多大な力を発揮したことである。数多くの幼稚園の設立、聖ミカエル国際学校、八代学院(現神戸国際大付属高校)の設立、神戸松蔭女子学院、大阪桃山学院、立教大学などで 日本の未来を担う青少年の教育のために骨身を削って働いた。また 月間「ミカエルの友」をはじめとして、数多くの著書を残している。 

聖公会とは......

このブログをお読みになる方の中にはクリスチャンではない方もいらっしゃると思いますので、ここで 父八代斌助の属した聖公会についてご説明したいと思います。
聖公会は イギリスの国教会で 英国国教会、Church Of England, Anglican Church、Episcopalian などと呼ばれています。 イギリスでは2世紀末ごろにはキリスト教が伝来していましたが、597年、教皇グレゴリウス1世がアウグステイヌスを派遣して伝道が進み、カトリックの支配下に置かれました。 しかしヘンリー8世がカトリックからの独立を決定し、その後、清教徒革命などの激動を経て確立されました。マルチンルターの宗教改革は当時のカトリック教会に疑問を感じプロテスト(抗議)して起こったもので、これまでカトリックが伝統的に継承していた儀式や聖職位を排除し、聖書に戻る聖書主義と信仰によって義とされるという信仰義人説を採ったのに対して、聖公会は使徒継承の信仰と伝承を護持し儀礼面もほぼカトリックの伝統に立脚してるため カトリックとプロテスタントを結ぶ橋渡しとして大きな役割を果たしています。1960年英国国教会最高の権威であるカンタベリー大主教がローマ法王と会見した歴史的出来事はその象徴であったといえるでしょう。宗教改革で分裂した教会は その後植民地主義とともに世界各地への宣教に力を入れます。日本にも明治以降カトリックやプロテスタント諸派とともに聖公会の宣教師が各地で宣教活動を行いました。そして北海道に小学校校長として赴任していた祖父八代欽之充が バチュラー宣教師に会いキリスト教に改宗したことから父八代斌助の神とともに歩む人生が運命づけられたのです。

マルコ伝16章15節

「全世界に出て行って、すべての作られたものに福音を宣べ伝えよ。」 (マルコ16章15節)これはイエスキリストが残した言葉です。 実は私も若いころやっきになってこの言葉を遂行しようとしたことがあります。 しかし専門的知識もなく人間力もなく 言葉はむなしく人には伝わらず、いつの間にかあきらめるようになっていました。宣教は専門職に任せるものと言うのが、使徒継承の聖職位を有する宗派の倣いになっているのです。それでもこの聖句は心にかかっていたのでしょう。 たまに 万人祭司説を唱える諸派の方からこの点を指摘されると返す言葉もなく黙するだけでした。 
さてこのたび父の回想録を読んでいて 私は意外な言葉に出会いました。それはミス.リーの回想録の中の言葉です。その一節をご紹介します。
ーーーー私は長い年月、 八代主教さまの生活に触れる特権を与えられました。私はこれらのことの証人でございます。かって主教様は私に、「世界中のすべての人に私のことを話してほしい。」とおっしゃいました。ーーー(法律文化社 回想の八代斌助より)
この一文を読んで、私は「自分を伝えよ」という父の遺志を知ると同時に、生涯神を仰ぎキリストの道を歩んだ父を語ることは計らずもこの聖句、「福音を述べ伝えよ」を具現することになると理解したのです。

父の幼少時代

父の生涯は70年。私は父が45歳の時の子供ですから、父の生涯の3分の1しかともにできなかったことになります。父の生涯を客観的に見ますとそのクライマックスは戦中、戦争直後であると思うので、私が育ったころの父はその生涯の完結期、小説で言えば前編、中篇を抜かして、私は父の生涯の後編のみを読んだようなものでした。後編に出現するすでに偉い人と評されていた父の魂と行動原理が前編や中篇でどのように形成されていったのか、もっともっと父の生存中に関心を持てばよかったと悔いを残しますが、とにかく残されたわずかな資料からその生い立ちを振り返ってみたいと思います。
父、八代斌助は明治33年3月3日、欽之充とヨシの次男として生まれました。長男、格の助は幼いころ病死しているので 父は次男であっても長男のような存在であったと思います。父の幼少のころについて私が耳にしたのは 極貧であったということでした。そのために貧助と名づけられるところを役所の方の計らいで斌助になったとかーーその真偽の程は定かではありません。 しかし明治33年といえば 武家社会が崩壊して明治の新政府が発足して僅か30年余、しかも未開拓地北海道の片田舎で 異国の宗教であるキリスト教の牧師の家庭がどれほど貧しいものであったかは容易に想像できます。
祖父欽之充は秋田県の出身で、明治26年23歳の時、北海道勇払郡鵡川村へ小学校の校長として赴任してきました。ある日、川で遊んでいた長女ツネが川に溺れ、その娘を助けようとして近所の女の子が川に飛び込みました。それを知った欽之充はすぐさま川に飛び込み、わが子ツネを助けることはできたのですが、ツネを助けようとした近所の娘は帰らぬ命となったのです。 その事件について祖父は後に「自伝」の中で、「私の人生の書き直しの時機が来た」と書き残しているほど拭い去れない苦しみを彼の心に残しました。思いつめた欽之充は明治29年5月、平取り村にある聖公会の教会にジョン.バチュラー宣教師を訪ねました。 それが八代欽之充と聖公会との出会いでした。魂の救いをキリストの十字架に見出した欽之充はその後ひたすら信仰の道を歩み、聖職について生涯を神にささげることになったのです。(春秋社 永田秀郎著 「跪くひと八代斌助」より)
このようにして祖父の心に蒔かれた一粒の種が後に父の中で大きな実りの実を結ぶことになるのです。

青年時代 1

父は祖父の転任に伴い、釧路に移り、釧路中学校に進みました。しかし、父の家庭の貧しさは変わりませんでした。そのような事情の下でも、父はそれに屈することなくお金を稼ぐためあれこれ工夫して楽しんでいたともいえます。裏山にりすを追い、取って売ったり、学校の教科の虎の巻を作って学友に売ったりしたような話は武勇伝のように聞かされたました。
当時の北海道はまだ未開で、さいはての地であり、半年は雪に埋もれた所でした。 その頃の学生たちは本をむさぶるようにして読んだといいます。父は鶏を飼って卵を売ったり、新聞配達をしたりして貧しい家計を助けましたが、「当時の学生の間では 貧富の差によって生まれる劣等感や、心の醜い相克などはひとつもなかった」「自分自身と他の(裕福な)学生との間においては、友情にひとつの曇りもなくすごすことができた」と父はその自伝の中で語っています。しかし次第に最果ての地、北海道にも近代化の波が押し寄せ、「原始的な生活から、近代都市へと進む過程には、さまざまな社会悪が、到底個人の力で、どうすることもできないまでに急激な発展をみてきた」のです。階級闘争が激しさを増す中、「個人と言うものが、こんなにも無力で、こんなにも社会という巨大な暴力団にさいなまれていかなければならないのか」。中学五年のころの父はそういう問題に悩み苦しんでいました。
北海道は監獄の土地。一人の貧しい男が、泥棒をしたために、人をちょっと傷つけたために、青い獄衣に包まれ、ロープで数珠繋ぎにされ、厳しい労働を強制される一方で、戦争で多くの人を殺したものが勲章をもらう。そんな時代に、幼い日の清く美しい心が微塵に砕かれていくのを感じながら、父はイプセンに、ドフトエフスキーにその答えを見出そうとしました。
父にとって故郷の学生時代最後に、忘れがたい事件が起こりました。それは、無期懲役囚、瀬戸口逮捕の事件でした。瀬戸口は網走の監獄を四人の同囚と看守を殺して脱走し、湖を泳ぎ抜いて、あの町この村に出没し、あらゆる残忍な行為の末、山に逃れました。あらゆる捜索の手を逃れながら、ある日、彼は静かに捕まったのです。畑から家路に戻る百姓が、道端でぐっすり寝込んでいた男を見つけました。恐る恐るみんなでその男を囲んだら、懐から一羽のハトが飛び出したのです。ハトは足を怪我していました。彼はその時、恐ろしい目玉で百姓をにらみつけ言いました。「お前らに捕まるような俺じゃない。だがここまできて、足の傷ついたハトを不憫に思って、懐に入れてさすってやったら、クウクウと嬉しそうにないた。このハトも偽善者の善人面したやつらにやられたのだろう。胸にやさしいハトを抱いたら、自分にも優しくしてくれた子供のころの家庭を思い出した。」こういってこの無期懲役囚、瀬戸口は静かに逮捕されたのです。 
「社会悪というのは革命ではない。議論でもない。集会でもない。自分はやはり一人一人の人間の心の友として生きることが、少しでもこの世界から社会悪をなくする道だと、今でも思っている。あの小さい子供のころにこよなく愛した小さい心、それが自分の生きている社会につらぬいていくのだ。」これは近代化の波によって避けがたく起こってきた階級闘争や社会悪に対して、父が貫き通した信念でした。 (わが心の自叙伝より )
後に父は、社会からはみ出された人を連れて帰って世話をしたり、就職の難しい共産党員を学校の教師に招いたりしてその信念を表しました。父は幼いころから持ち続けたこの清く美しいものにあこがれる小さな心を最後まで決して失わなかった人でした。

北海道を出て

私は、父が北海道を出てから、1927年、ケラムの神学校に留学するまでの間のことをどういう訳かあまり耳にしませんでした。資料もほとんどなく主な情報を小説、永田秀郎著「跪く人、八代斌助」に頼るしかありませんでした。永田氏は生前の故人との接触はなく、またフィクションでもあり、どの程度事実に即しているかは不明ですが、当時の父の足跡をいくらか掴めたような気がします。
祖父欽之充は 父を信仰の後継者として強く期待していたようです。しかし中学を出たばかりの父は、未だその決意が定かではありませんでした。心中葛藤を抱きながら、敷かれたレールを歩くべく、伊藤松太郎司祭を函館の聖ヨハネ教会に訪ねました。伊藤松太郎は 祖父欽之充と共に神学を学んだ欽之充の先輩にあたる人でした。そして寄宿先の聖公会によって運営されていたCMSの寮で 聖公会伝道師、ファーザーラング、寄宿生の長谷川海太郎を知ることになります。長谷川海太郎は、後に牧逸馬、谷譲二、林不忘という三つのペンネームをもって通俗小説家になった男でした。これらの人との出会いが父の将来を運命づけて行ったように思います。 長谷川海太郎は函館新聞社、社長の子息で、キリスト教には全く関心がなかったものの英語の習得を目指して、CMSの寮に寄宿していました。貧しい父が当時、見たことのなかった活動写真を見てはその話をし、海の向こうに広がる広い世界のあることも語りました。雪に閉ざされた釧路の貧しい牧師の息子である父には、はかり知ることのできない、そして未だ見たことのない世界を教えてくれた人物でした。
父はこの時期、CMSの宣教師ラングのもとで親しく聖書を学びました。ラングはいち早く 父の持つ内に秘める力とエネルギーを見出し、自分が日本の地に蒔いた一粒の種を育て花咲かせることのできる人物として、父に将来を託したいと考えるようになりました。一年間、ラングの下で就学の後、ラングの強い推薦により、父は東京の聖公会系ミッションスクールである立教大学予科に送られたのでした。 1918年、父は ラング宣教師の推薦により、立教大学予科に入学しました。そしてCMSの盤上寮に入りました。 聖職者への敷かれたレールをいっそう明確に歩むことになりますが、まだまだその決意はできなかったようです。CMSの保護による就学でしたが、貧しい苦学生であることに変わりなく、また戒律主義的で規則の厳しい寮生活にもなじめなかったようです。父は小さいときから、身体を使って労働をし、お金を稼いで家計を助けていましたし、15歳の時に相撲部屋からスカウトされたほどの体躯と強腕の持ち主でしたので、静かな学業と寮生活に徹することは苦痛だったようです。着物や本を質に入れて、相撲部屋通いをして寮の監督から顰蹙を買うこともありました。
このころハーバート・ハミルトン・ケリーが教会史を講じているのを聞き、「キリスト教は宗教ではない、福音である。」という言葉に強く惹かれました。 このケリーはまもなく英国に戻り、ケラム神学校を創立しました。父は7年後にこの神学校に留学することになります。この一度の邂逅が大きく父の人生を変えることになったのです。
1919年9月、父のもとに「ハハ キトク」の電報が届けられました。父は釧路までの旅費を借り、すぐに釧路へと帰北の途につきました。上野から釧路まで3日間かかる時代でした。私の祖母ヨシは、最後の子供である祥吉を出産後、肥立ちが悪く衰弱していたところ、腸チフスを患い一旦は釧路病院に入院したものの 本人の希望で自宅で療養していました。3年目に会う母は変わり果てるほどに衰弱し、愛するわが子との再会を喜びながらも、9月29日、静かに息を引き取りました。母親が自宅療養を望んだのは家計を案じてのことであることが分かるだけに 父は母親の病の根源は貧困だと感じずにはいられませんでした。 貧しさが母を殺した。父はその痛烈な痛みに苛まれ、そんな母親を哀れむ心は生涯を貫いたのだと思います。 晩年、父はしばしば北海道釧路の紫雲台にヨシの墓を訪れ、祈りと涙の時を過ごしていました。当時の父は自分の母の命を奪った貧困からまっさきに自力で立ち上がりたいと思っていました。そのことが父にとっては心のなかで中々聖職者への道を決意させえない理由でなかったかと私は思います。
オスカーワイルドの短編集に「幸せの王子」という話があります。お城の中で何不自由なく育った幸せの王子は、城の外に銅像として立てられたとき、初めてその町の中にさまざまな悲しみを抱えた哀れな貧しい人たちがいるのを知ります。金と宝石に覆われた幸せの王子は、自分の身体を飾り立てている様々な宝石や金箔を南の国への旅立ちの遅れたツバメに頼んで、町の哀れな人々に贈ります。身体を包むすべての財宝を与えつくした幸せの王子は醜い鉛の塊となってしまいます。その像は倒され、炉に投げ入れ燃やされてしまいます。その町の中で、神様の命令で天使の選んだ二つの最も尊いものが、寒さで凍えた死んだツバメの亡骸と、幸せの王子の鉛のハートであったということの宗教的な意味は別にして、貧しい人に自分の持てるものを与えつくした幸せの王子は滅びてしまったということは、貧困という問題のもつ難しさを象徴しているように思われます。
父にとって貧困は、机上の観念ではなく体験でした。人生でめぐり合った一人一人の人に 富めるものにも、貧しきものにも、一応に熱い愛で接した父は、貧困の悲しさを痛感し、常に貧民問題や社会悪に胸を痛めながら、後に、貧民救済というような慈善事業ではなく、また社会運動にでもなく、人間形成の、また社会生活の基礎である教育事業に力を入れたのもそのような理由からではないでしょうか。これが、父の貧困問題や社会悪に対する一つの答えであったと今は感じています。
さて、お酒の入った父が祖母ヨシに関してしばしば私たちに語った思い出があります。貧しさで羽織の紐一本買うことのできなかった母親に、父はある日、労をして稼いだお金で羽織の紐を買い、贈りました。その羽織の紐をヨシは土間に投げつけて、「斌! お前にそんなことをしてもらういわれわない!」と叱りつけました。話がそこまで行くと、いつも父は滂沱の涙で語り続けることができないほどでした。私は祖母はどうして喜んで上げなかったんだろう、子供の心を踏みにじってと父が哀れでならなかったのですが、今 そのエピソードを思い返してみると、自分の夫の尊厳を侵すことを決して許さなかった明治の女の気概と筋の強さを感じます。そういう筋の通った母親に育てられたからこそ、明治と云う時代には多く偉人が出現したのではないでしょうか。

青年時代2

祖母ヨシの葬儀も終わり、僅かな遺品を整理していると、柳行李の底から黄ばんだ木綿袋が出てきました。表には斌助と墨書きしています。中からは一銭銅貨が沢山流れ出てきました。祖母ヨシが父のために苦しい家計の中から、工面してためたお金であることは明らかでした。全部で35円81銭ありました。祖父欽之充は旅費のために用意した40円と共に大切に使うようにとその袋を父に渡しました。父は生まれて初めて手にした75円81銭を懐に車中の人となりました。母の命を奪った貧困を克服したい。その思いがふつふつと湧いてきて、再び学業には戻りたくない、このお金を元にもっと大きなお金を作れないか、一獲千金の夢が心を占めるのをとめることができませんでした。家計を助けるために少しでもお金を稼ぎたい、ということがその頃の父の気持ちであったと思います。

青島に行く

第一次大戦のあと、中国の青島は好景気でにぎわっていました。
青島に行けば一儲けできる -- そんなうわさを耳にして父は青島への雄飛を志しました。
1920年、僅かな資金で渡ってきた青島。
まだ20歳という若い父にとって、現実は決して夢の世界ではありませんでした。 何か仕事をしなければならない。 父は釧路や厚岸で身につけた魚の扱いを武器に魚の行商の仕事を思いつきました。鮮魚を仕入れて町を歩いて売りさばく行商。しかし現実は厳しく、夢はたちまち破れました。疲れ果て、絶望した父の目に入ったひとつの教会、その教会の門をくぐり、打ちひしがれて祈っているとき、父はエドワードと名乗る一人の紳士に出会いました。この教会の牧師が病に倒れて英国に戻った後、教会を守っている一信徒でした。 行き倒れ寸前の父に証券取り扱い関係の仕事を与えてくれたばかりでなく、父の経歴を知って 牧師のいないこの教会の管理を託し、新しい牧師が来るまでの一年間、礼拝守る仕事を与えてくれたのでした。エドワードは無牧師の教会を守った父の働きをたたえながらも、いつまでも青島にいてはならないと父に帰国を勧めました。こうして父は1921年、一年間の青島での貴重な体験の後、日本に帰りついたのです。
青島から無事に生還したものの、家計のためにお金を稼ぎたいという、一獲千金の夢は果たせず、未だ無職の徒であった父は、故郷釧路への車中これから先の生きる手段に思いを巡らしていました。 汽車が陸軍歩兵連隊のある旭川の駅に滑り込んだとき、父の目に志願兵募集の看板が映りました。 父はその場で汽車を飛び降り、旭川歩兵二十七連隊に一年志願兵として入隊しました。突飛な行動でしたが、一年の服役の後、除隊の時には正八位陸軍少尉に任官し、中学校訓導の資格まで手に入れました。これで食いはぐれることはないという自信をつけたと云う意味では有意義な一年となったのです。
除隊してようやく戻った故郷の釧路では、祖父欽之充の高知への転任が決まっており、父はそれに同行しました。高知へ向かう旅の途中、神戸にて聖公会のフォス主教にあったことが その後の父の運命を大きく変えるものとなりました 。

永遠の地、神戸
祖父と父は祖父の新しい任務地高知への旅の途中、降り立った神戸、そこが永住の地になることをそのとき父は想像もしませんでした。
欽之充につれられて 初めて会ったフォス主教はしばしの間父との会話を楽しみました。
フォス(HughJamesFoss)主教は1876年に来日し、神戸を中心として布教活動をしていた、日本聖公会にとっては中心的な人物でした。そして明らかに フォス主教と父の間には魂の邂逅が起こったのです。父は祖父について高知に行く予定を変更し、神戸教区に移籍して、1922年、神戸教区 姫路頌栄教会に伝道師補として勤務することになりました。 これは父のこれまでの経歴からいって異例のことであり、この後 父が神に仕えるものとして、大きな働きを全うすることを考えたとき、まさにフォス主教の背後におわします全能の父なる神の御技を思わざるを得ないのです。父は伝道師として熱意と誠意を持って働き、教会は活気に満ちてきました。父に関する好意的な評価を喜びの贈り物として フォス主教は40年以上にわたる日本での任を終えて1922年に祖国イギリスの途につきました。

結婚

1923年 1月、父はまた従兄弟に当たる私の生母、八代民代と婚儀整って結婚しました。欽之充がキリスト教へ転宗して分裂した親族の融和を図るための家族同士の婚姻でしたが、これまで波乱の多い苦しい人生を送った父は 初めて知った家庭にどれほど慰められたでしょう。翌年、長男欽一が誕生しました。その後、次々と子宝に恵まれ、父はその生涯において、子供11人、孫29人の大家族を構成しました。父は多くの人に熱い愛を注いだ人でしたが、家族への愛もひとしおでした。 子煩悩で教会の礼拝では右と左に子供を抱いてお説教をした話など有名です。

バシル主教

1925年9月、神戸地方部定期会議があり、父はその書記の任に当たりました。会議の準備から裏方の雑務まで見事にこなした手腕が高く評価されました。当時は、フォス主教の後任の来日までは、南東京地方部監督で大きな力を持っている サムエル・ヘーズレット(Samuel Heaslett) 監督が神戸地方も管理していました。 父はこのヘーズレット監督より執事按主を受けるにいたりました。 そしてその二ヵ月後、フォス主教の後任、ジョン・バジル・シンプソン(John Basil Simpson)が来日します。 
バジル主教はウエストミンスター寺院で聖別され、日本の神戸地方部の主教に任命されました。 その推薦をしたのが、東京の神学院にいたハーバード・ハミルトン・ケリー(Herbert Hamilton Kelly)でした。 ケリーは帰国後、ケラム神学院を創設していました。 後に父はこの神学院で学ぶことになるのです。
同年11月、神戸港に着いたバジル主教を20人くらいの教会関係者とともに向かえた父は、デッキにひしめく乗客と出迎えの群衆を掻き分けて船内に入り、バジル主教を船室に出迎えたのでした。この父の機転がなければ、バジル主教と出迎えた教会関係者とが、ひしめき合う群集の中からお互いを見つけるのは至難のことであったでしょう。父は事に当たって常に深く相手を配慮し、細かい心配りをする人でしたが、そんな資質はこのころから備えていたのでしょう。父はフォス主教とバジル主教との出会いで、より大きな仕事をするようになったように感じます。フォス主教からの強い推薦を心に留めながらも バジル主教は自分の目で父を観察しました。そしてフォス主教と同じく父が将来の日本聖公会を託すにふさわしい若者と判断するに時間はかかりませんでした。ことにバジル主教を印象づけたのは、聖ヨハネ教会の建築に当たっての父の働きを見たからでした。父は着工から聖別にいたるまでの全ての工程につき、工事現場を見回って進捗状況を報告し、外部との交渉を請け負いました。残されている、バジル主教のバジル書簡によれば、神戸の聖ミカエル教会は、当時の日本の事情のなかで、成長して改宗者が出ているということは驚くべきことだと、記されています。
また、1938年(昭和13年)7月5日に関西地方を襲った豪雨により、神戸市内の各教会は多大な被害を被りました。この時の父の復興への努力は、壮烈であったと当時の「基督教週報」に記されています。1927年6月12日、こうした父の努力と働きが評価された結果だと思いますが、バジルは父を長老(司祭)に叙任しました。 当時は父の経歴を中傷するものも少なくありませんでした。それらの中傷を聞きながら、バジル主教は --八代斌助をケラム神学校で学ばせなければならない。勉学を修めて日本に帰ったとき、この若者は日本聖公会の大きな力となる者になるだろう --と決断したのでした。

ケラムに学ぶ

英国ケラム神学校の留学がその後の父の人生に決定的な影響を与えた事は疑いもありません。
その時までの父の限られた経歴と経験では その後、日本聖公会で大きな仕事をすること、またキリスト者として大きな飛躍をしていく事は難しかったのではないかと思います。それ程に、父の人生にとってこの留学は大きな意味をもっていたのです。北海道の原野に貧しい一牧師の子として育った父にとって、海外で学ぶということは、当時の事情を考えれば、想像を超えた出来事であったでしょう。様々な人との出会いと支援によって英国への留学を果たせたことは まれに見る幸運としかいいようがありません。いやそれ以上に 神の見えざる導きがあったのではないかと私は感じます。
1927年11月、父は客船モンゴリア号に乗って英国に向かいました。ちょうど英国とシナ中国(蒋介石)との間に紛争があり、上海に出兵していた英国海軍の陸戦隊の多数の兵士が帰国するために乗船していました。その船に従軍牧師がいなかったため 父はその礼拝や公祷をつかさどる任を命ぜられました。船は、香港、シンガポール、ビルマ、コロンボ、スエズ運河、ナポリ、ビスケ湾を回り、父の若き胸は大きく膨らみました。
父は自叙伝の中で この洋行の体験を「自分の生涯に一本の柱をぶちこんだ」ものと表現しています。ケラム神学院の所在地はイギリスの奥深い田舎で、僅かな商店と芝居小屋だけの電気もない、文明から離れた生活でした。 北海道の厚岸でランプの暮らしをし、釧路や神戸で文明の利に浴した父は 英国に来て、15・66年の時代の逆行に驚きました。しかし 新しがらずに古いものをこよなく愛してゆったりと進んでいく英国の姿に「層の厚さ」を感じていました。
ケラム神学院での体験はもう少し具体的に知りたいのですが、遺憾ながら資料が残されていません。しかし父が折々語ってくれたことの中にこんな話があります。生来料理好きであった父は神学院の厨房に入り、よく料理の手伝いをしました。そのとき覚えたローストビーフやパイ料理などはイースターやクリスマスのお祝い事の時に よく腕を振るったものです。またあるとき、白人の神学院生の一人が、父に、どうしても一人の黒人の神学生を愛することが出来ないと打ち明けたことがあります。人種問題を初めて身近に感じることになったわけですが、父は自身がアジア人であるがゆえに双方を愛することの出来る幸いを感じたようです。父はケラム神学院で学問を修めた後、サザーランドの貧民窟の聖マリアマグダレン教会で牧師となって働きました。

暗黒の時代

英国の留学から戻ってくると 日本の情勢は大きく変わっていました。
戦前、戦中の政治的、社会的な歴史上の変化が、その後の父の人生にも大きな影響を与えていくことになります。
日本は急速に軍国主義国家への道をたどっていました。父は 小林多喜二が治安維持法違反で特攻に拷問の上虐殺されたというニュースに大きな衝撃を受けました。
ここで当時の情勢を簡単に振り返ってみたいと思います。
1929年10月24日ニューヨーク株式取引所で 株価が大暴落。世界は大恐慌に入る。日本のとった不況対策は、軍備の拡大による景気の拡大となっていく。1931年9月日本は軍備拡大による広域経済圏の確立を目指し、満州事変が勃発する. このころから軍部内での青年将校、右翼の力が強まる。1932年 血盟団事件、5・15事件 が起こる。1933年 日本は国際連盟を脱退する。1936年 2.26事件が起こる。 1937年 日中戦争が起こる。1938年 国家総動員法が施行される。1940年 日独伊三国軍事同盟が結成される。1941年 太平洋戦争はじまる。

1929年、英国留学から帰った父は 神戸の須磨聖ヨハネ教会に勤務しました。 英国ケラム神学院での厳しい修行と修学でゆるぎない信仰を与えられた父は、この後,精力的な牧会を開始します。教会内での信徒との交わりはもとより、週2回、明石にまで教会建設を目指して自転車で通い、また「聖ペテロ」「主イエス」などの著書を出版し、文書伝道もはじめました。
1931年には 神戸教区聖ミカエル教会に招聘されます。また 常置委員長に就任し、あちこちの教会から招かれて 礼拝説教、静想指導、伝道講話と東奔西走しました。また 松蔭女子学院にて聖書を教えました。当時の教え子は多く信仰の道に入り、聖ミカエル教会に骨をうずめたことを考えるとき、その伝道の熱意が感じ取れます。父は この後、1970年に世を去るまで、このミカエル教会を離れることはありませんでした。この後の経歴のすべてを記すことは割愛しますが、教会内外に次第に活動の範囲を拡大し、大きな信頼を得てきたことは確かなようです。 そして1939年、神戸教区主教に聖別され、九州教区、北海道教区を管理するようになりました。
さて この頃日本は軍国主義の一途をたどっていました。 キリスト教界への圧迫や圧力も次第に強まってきていました。1938年(昭和14年) かねてから国会に提出されていた 宗教団体法案が国会を通過して実施されるようになりました。この中で教団認可の条件として50個の教会数と5千人の会員が必要であると言う基準が出されました。これはキリスト教会にとって大きな衝撃でした。キリスト教会の中にはこの基準に達しない小教派が存在したからです。このような情勢下で教会合同の問題が大きく浮上したのです。当局より簡単に教団認可を受けることが出来ると考えていた各教派は、ことの意外さに狼狽し、全教派の合同を推進することが提唱されたのです。この事が、教会合同問題の発端となったのです。
信教の自由が当然のこととなった現在では、ひとつの宗教団体が 国家から認められないことが どれほど重要なことかを感じ取ることは難しいと思います。しかし 国家から公認されないとなるとその宗教団体は、弾圧、解散を強制されても仕方がないわけです。
国家と宗教の関係は、現在ではその逆の問題を引き起こしています。 たとえば地下鉄サリン事件の場合、その容疑者を検挙することは出来ますが、信教の自由のもとではその団体を解散させる権力はないのです。
そういうわけで当時の法体制の元で 認可されなかった聖公会の教役者、信徒の不安は大きなものであったでしょう。 父は官憲から受けるの圧力以上に 聖公会内部の中に起こる不信や離反を寂しく思ったに違いありません。
1939年(昭和15年) 父は名出主教より、教会合同問題の委員に指名され、文部省ならびに教会合同委員会との交渉に当たりました。
10月17日、「皇紀2600年、奉祝全国キリスト教信徒大会」が開かれ、聖公会はこれに先立って協議した結果、合同不参加を表明しました。こうして聖公会はプロテスタント諸派とは別に宗教団体法による教団として発足するための認可が必要となったのです。しかし、合同不参加が理由となり、日本聖公会は教団認可とはなりませんでした。 一方ローマカトリックが「日本天主教」、合同したプロテスタント諸教会は「日本基督教団」として教団認可が与えられ、聖公会内部にも不安と焦慮を感じるものが出て、混乱の時期を迎えることになります。
1941年 太平洋戦争が起こると、米英国的色彩の濃い聖公会の教団認可はいっそう困難となってきました。かくして聖公会内部から合同参加への動きが起こってきたのです。
1942年(昭和17年)夏、大阪教区聖職信徒協議会が開かれ、一司祭から「日本基督教団への参加」が提言され多くの賛同を得て、名出主教の決意のもと合同参加の同意書に署名し、大阪教区は教区全体が日本基督教団に合同参加することになりました。そして同教区は全国の牧師信徒に「日本キリスト教団合同を勧奨する書」を送り、同一歩調を歩むことを勧めたのでした。しかし同年9月 東京で開かれた主教会議、教務院会議で「諸教会に合同を勧告すること」の動議が出されましたが否決されました、名出主教病気のため主教会議長辞任となり、佐々木鎮次主教が代務者に選ばれ、その丁重な謝絶文にて聖公会信仰の立場が表明されました。しかしこの間、東京でも信徒を中心に合同参加の機運が高まり、それは全国に派生していきました。東京教区主教松井米太郎も合同を決意し、信徒牧師に同一行動をとるよう勧告しました。 教会合同を推進した人々の背景には、1920年に開かれたランベス会議(世界中の聖公会の代表が集まる総会)以来、聖公会は教会合同に関心が深かったこと、また当時の情勢からかんがみて、合同に参加することが唯一聖公会の存続の方法であったと考えたことがあったと思われます。
このような動きの中、同年10月28日 名古屋に9人の主教が会合し、信仰擁護の責務について協議した結果 「大阪教区合同に関する諸宗教の声明書」を発し、「合同参加が信仰擁護者の責務に相容れない」旨の声明文を出しました。このような事態の結果、聖公会は事実上二つに分裂される事になったのです。この事は日本聖公会の歴史の中で大変不幸な出来事でした。
さて 父がこの合同問題反対の中心人物であったたことは有名です。父は、合同不参加への理由について、「使途時代より継承したる、主教、司祭、執事の三職位を確保する」ことと相いれないからであった、と同時に、聖公会は「キリストのからだ」としての教会の存続にとって不可欠なものであり、神より与えられた賜物であるから」と記しています。同時に父は、国家権力や政治が宗教に介入してくることについては、強く反対していました。
今の時代から考えますと、同じ基督教が何故ひとつになれないかと疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。確かに この問題以前から、教会の再一致は論議されてきました。しかし、マルチンルターが宗教改革を起こして旧教から分離して以来、教義上、信仰上の相違は明確で 再一致はそうたやすいことではありませんでした。それが 軍国主義国家の政策の下、国家権力により強制的に一つにされてよいものでしょうか。個人の信仰の自由や教派の教義はそれほど 安易に変更しうるものでしょうか。 国家権力に屈せず非合同を貫いたものの信念はそこにありました。当然のことながら 国家権力に応じない非合同の指導者、ことにその中心人物となった 父への官憲の圧力は並々ならぬものでした。その後、父は警察などの厳しい監視のもとにおかれることになります。 
人間の真の価値は逆境にあって発揮されます。私は この時代の関係資料を探索しているとまさに父らしさを垣間見る事が出来るのです。父の自伝の中に当時の心境を言い表したこんな表現があります。「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」といわれたイエス様だが、その後はどうせよとは言われない。 右と左を黙ってたたかしたら、中央突破ぐらいせねばヤソ教信者は 去勢された連中の集まりになる。こんな気概を根底に秘めながら、しかしこの非常事態の国政下、どのように生きていかねばならないかは父の持つ大きな課題であったようです。
その頃、日本精神に一本の支柱をつくるべく「皇道哲学」なるものが生まれました。父はそれを学び 日本精神の先生と云われた人を訪問し、論争を試みています。 佐藤通次曰く、「デカルトのわれおもうゆえにわれありでは駄目で,親われを生みたまえり、ゆえにわれ存すでなければならぬ。」それに対して父は 「親だって自分の力では生めません。僕なら 親神(在天の父なる神)のめぐみによってわれを生めり、ゆえにわれ存す。」と答えています。そして この戦時下の自身の行動原理を聖書の中に、「汝の隣人を愛せよ。」に見出し、町内の仕事、山の薪取り、警防団、バケツリレーと労惜しむことなく先頭に立って指揮しました。
まもなく英米人は交換船で帰国が義務付けられましたが、国際都市神戸には様々な理由で帰国できなかった英米人が数百人残されました。 ひたすらに戦争へと突き進むの日本の政局下、日本に残された英米人の運命は、強制収容所に入れられるなど悲惨でした。 それらの人に対しても父は隣人愛を惜しむことなく、非国民と呼ばれ、レンガに打たれながら食料を運びました。合同を促す官憲の圧力を受けながら、すでに法的には認められなくなった聖公会の自身の管轄下、朝鮮、九州に信徒を訪ねそして慰め、まさに東奔西走の日々でした。
そのうち神戸市学童集団疎開が計画されました。父はその任を引き受けて岡山誕生寺に学童を引率いたしました。 先頭に立って模範を示すため、(地域の力あるものたちは その子供を個人の疎開地にやり集団疎開を避けました。) 父はわが子 三男浩、四男胖、三女公子を送りました。 そこでの生活は想像を絶するほど過酷で、終戦後、子供らが帰ってきたとき、子供らの憔悴の様、ことに公子のやせこけた姿に怒りを静めること耐え難きものがあったようです。これらの子供を疎開地で苦しめたことの胸の痛みを父は生涯持ち続けたように思います。
また、分裂した日本聖公会が、再統一されたのは、戦後のことで、父はそのために大きな努力をついやすことになります。

母民代の死

母、民代は22歳の時に父と、1923年(大正12年)1月に結婚しました。
母の人生、そしてその生き方は、その後の父にも大きな影響を与えたと思います。「個人格が取り巻く国家というコンクリートの壁に圧せられた時代、大海の小船のように翻弄された時代」と、父が表現するこの恐ろしい戦争のとき、父は骨身を惜しまず国家のために奉仕しながら、信仰を守り抜くために国家権力に抗しました。そんな父に官憲からの圧力は日々にまし 憲兵が家を訪ねることも多くなりました。 父は持ち前の闊達さで次第に担当憲兵の心をひとりひとり溶かして行きました。戦後、その憲兵達の中で信仰の道に入ったものがおり、彼らは終生、父との親交を失う事はありませんでした。父がこの苦難の時代に 自己を貫き通すために、母、民代の陰なる支えを忘れることは出来ません。官憲の圧力に対して 民代の取った態度は雄雄しいものでした。民代は家に訪れる憲兵を丁重にもてなし 子供らには恐ろしい人たちとの印象を与えず、姉、兄達はいつも「おじちゃん、おじちゃん」となつきました。また ついに父が連行されたときも、いつもの留守と変わらぬ態度であったので 子供達は非常事態であることを知りませんでした。
民代の兄、八代重矩は陸軍参謀本部の高官でしたが、民代には 「心から夫に従うように。」と言い渡していたそうです。憲兵の中には父以上に母民代に心動かされた者がいたといいます。 このように、母は芯の強い人でしたが、豊かな心の持ち主でした。
1944年(昭和19年)、戦況がとみに悪化する頃、長男欽一は陸軍特別見習仕官として入隊、浩、胖、公子は集団疎開で離れ、家には長女道子、次女洋子、次男崇 四女邦子が残されていました。そして翌年、1945年3月には五女和子が生まれました。父は召集を受け朝鮮に出征し、残された母は 赤子を背負い、幼い娘の手を引いて 子供らと共に戦火の中を逃げ惑いました。6月5日の大空襲で神戸は焼け野原になり、家も教会も焼き尽くされました。焦土と化した神戸に僅か2時間、立ち寄ることの出来た父は 「いっさいを失った妻が、子供だけを見守っていた。 崇高なキリストのあかしだ。」と述懐しています。
1945年8月15日 恐ろしく、悲しい戦争はついに終わりました。
父が戻り、集団疎開の子供達が戻り、長男欽一が復員し 家族みんながそろったとき、母は力尽きて病床に臥せり 9月25日、永遠の眠りにつきました。享年42歳でした。戦前、戦中を通じて言葉では表現出来ないいろいろな苦難に直面していた父にとって、その大きな支えであった母の42歳という若さでの死は大きな衝撃であったに違いありません。しかし、母の残した大きな愛はその後の父と家族を支えてくれたと思っています。下記の手紙は父が母、民代の死について書いたものです。この手紙は信者の方によって書き写され、保存されてきたものです。

妻の永眠を報じて

拝啓 
いつの間にやら 秋冷を覚ゆるの候となりました。何から申し上げていいやら。未だ復員していない私ではありますが 世紀の歴史的現実は目まぐるしくも私どもの身辺に迫りました。四月十五日御挨拶の間もなく、勇躍再度の応召に朝鮮の海岸断岸地帯で二ヵ月半を過ごしたのではありましたが、大本営参謀本部からの召命で、新たに俘虜調査要員として 敵情調査の一役を担っていました。七月下旬、ひとまず任務を終えて朝鮮帰任の途につきましたが、連絡船もなく下関、山陰と待機中 畏くも休戦の大命を拝受いたしました。往くものも,残るものも ただ祖国の上に幸あれと祈ったものでしたが、今は謹んで忍ぶべからざるものを忍ぶべき時を迎えたのであります。然しせめてもの慰めは銃後の同胞、殊に私の愛する聖公会員が 家を焼かれ、家族を失いつつもよく神の慰めを信じ、祖国統治の姿にじっと愛国の誠をもて耐えてきた実情であります。曲げられていた当局発表や 新聞報道の中で「銃後も第一線である」という言葉だけは真理でありました。否 銃後こそ第一線以上でした。この戦争過程の変調の中に疲れ切った神戸を訪れたのが七月末でありました。 六月五日、神戸聖ミカエル教会は焼かれていました。 私どもの住居も同様であります。 すべてがあの無残な爆弾の犠牲になっていました。 ですが、妻の敢闘はただ子供を護らんの一事にかかり 袴田神父を頼りに昇天教会に赴く途中 幾度も幾度も恐るべき焼夷弾に身をひそめたことでした。六つの泣き叫ぶ子供と当歳の子供を抱えて走った妻の姿に 神々しい母性愛をながめ 天から火を下して無垢の神の子を焼くものらを憐れまざるを得ません。 かくて昇天教会に数日を過ごした家族は上西八枝姉の好意でその家に迎えられ、小生の帰宅を待っていたのであります。 茫然教会の焼け跡にたたずんだ私もかくてはならじと整理のスコップを揮ふこと数日、ふとした指の負傷は不運にも瘭疽となり、数回の切開手術のやむなきにお至り、筆まめの私をして数旬にわたるの間、一筆も認め得ざる始末となりました。その間 戦争による栄養失調は明石に於いて末好長老病み、家庭に次女、三男の病気するところとなりました。 遂に末好君は 主の召したもうところとなり 失意の私また休戦後の後始末、俘虜収容所の動静、在留外国人の結婚 葬儀、記念礼拝など次々東奔西走の毎日を過ごしていましたが、子女らの看護に日々を犠牲にする妻の姿は平凡ながらも今尚、目に浮かびます。 八月も押し迫る頃 長男は逸早く復員いたし、私共の喜びを新たにいたしました。 時恰も指の第二回の手術に苦しんだ私は勝つためにいでたった疎開の子女らへの愛着やる瀬なく、山手校校長と相談、その好意にて久方ぶりに一家総員異常なしの形で 神に感謝するの時を得たのであります。 ですが、この頃から末の子供の不快を見守る妻は何かしら元気のない姿を見せていました。 一週間ほど疎開の子らに無理な元気を見せていたのに、遂に九月十日 病床の人となり「誕生寺に子供を返すのをしばらく待ってください」など願うのでした。 恰も私の留守中の苦悩と疲労を一心に負うたかのごとく、一度床についた妻は日ごとに元気がなくなって行くかのごとく案ぜられましたが、血液検査の結果腸チフスではないとの事で何かしら光明を認めたようで 相変わらず働いていました。 ところが二週間目の月曜日、急に心臓が弱っているようで危険を感じましたので医師を迎えに娘をやり、「或いはお前死ぬかも知れぬよ」と言うと秋田弁で「死ぬのか」と答えていました。「主の祈りを覚えているかな」など口ずさみ、使徒信経も出来たらしく十字のきり方を「こうか」など訪ねて、呼んだ子供らは急に起こされ母の危篤を告げられたこととて泣きじゃくる声も止め得ず「おかあちゃん、死んではいけない」と叫び、或いは「神様助けてください」とうめき 父たる私は茫然自失の態でしたが、静かに自分の母を失った経験を語り「神様がおかあちゃんにもお前らにも一番よいと思うことをなさるのだから強くなれ」と教えて 三男崇に命じて二階に小さい子供らを退かしめ、残り少ないであろう二人の最後の生活を惜しんでいました。折しも訪れた医師は妻の急変に涙ぐんでいました。 心臓の注射を二本ほど残して「せめて五・六時間なりと生き延びますから」と言わるるのでした。 妻は医師にお茶を出すよう娘らに命じ見送りしなかった余を「失礼な人だ」と叱責したり、まだまだ本人はしっかりしていました。 然し注射をするかと云うと「やめて置いて」としきりに願い人工的な不自然な苦しみを捨て、いっさいを主に任せて、残る短い地上生活をいとほしむかのごとくでした。 幾度もあせる私の「タミヨ、苦労をかけてすまなかった」の声にも平然とうなずくのみで、私自身恥ずかしく思うほどでした。風流を解した妻は不風流な私が花一つ飾ってやらなかったのに村片先生に花を求めそれを眺めて嬉しそうにしていました。二度目に子供らを集めたときには一人一人をよく見つめ、長男は依頼するところがあるがごとく、集団疎開の浩を抱いてなつかしみ最後に私の肩につかまり三度ほど軽くたたいてくれたのでした。涙にくるる一同を前にして静かに主の祈り、使徒信経をともに誦し愛歌を聴く余裕のある妻をこのときほど尊敬したことはありません。 憂いに閉ざされた夜も程なく白々とあけて参りました。七時頃「紅茶を飲みたい」といいだしたていっぱいの紅茶をうまそうにのみほし 続いてたった一つ残っていたチョコレートをにっこり笑いながらたべていかにも地上生活の最後を感謝するかの如くでした。 かくて正午一同の見守りの中に祈りと聖歌のまにまに意識を失いかけて来ました。 もはや最後だと私は二十三年余、私と子女らのために勤労のしるしを帯びた妻の手を胸に押しやりました。ですが、その瞬間、妻はその手をぐっと握り締め口を閉じて「その霊魂を主に委ねた」のであります。思わず私は「おおタミヨ、よくやってくれた」「みんなよく見なさい。これこそ死に勝つ勝利というものだ。お母さんは偉かった」と子供らとともに慟哭して神を賛美し神に感謝したのでした。ああ、妻は九人の子供を残して逝ったのであります。思えば不思議な摂理であります。 航空将校とて案ぜられた長男は帰り、集団疎開の子女らも枕辺に、自ら決死の看護をなせる子女らにかこまれ、世話になった上西先生も旅より帰って心からの謝辞を述べうる機会が与えられ、仲のよかった吉田先生に最後の一晩ゆっくりと看護され、未だ復員していない私が最後の数週をともにしたことなどはありがたいことでした。 ことに抹油式も陪餐もそれほどひどくならない十六日に行われ続いて二十日勿体ないけれどもと畏みつつ再度陪餐の機会を得ましたのは本人にも私にも何よりの満足でありました。さて心の痛手に力を落とした私共に袴田、中道両長老、上西先生、夫人伝道師各位、また鈴木、村片両先生、かつ多くの教友がいっさいの弔いの準備をしてくださったのでした。 幸いにも棺も備えられ 花も取り揃い美しく飾られ 平和な雰囲気が部屋を飾っています。二十六日夕、通夜の集まりは暗い停電のうちに行われ、記念聖餐式は二十七日午前七時、葬送式は同日午後二時、昇天教会に於いて執行されました。袴田長老、中道長老の司式並びに説教で 妻は彼らしく落ち着いて私共の手を離れたのでした。堂を去り往く棺に自らの犠牲になった母を慕う三男崇が「おかあちゃん」と叫び満堂に新たな涙を注ぎましたが おりしも訪れた親類の慰めに子供らも元気を取り戻してまいりました。妻の死、何故に神様が私の手から そして慕い泣く子供らの手から母を取り去り給うたかは現在の子供等にも且つ又人を教ふる私にもその聖旨の全き理解は得られません。それほど人間的な弱みを感じます。然し私共の確信は、神様が母によっても私共にとっても一番良い途を選び給ふたという信仰であります。無意味に思わるる「時」を通じて神様が私共を教えたもう聖旨を畏まねばなりません。ただ此の際皆さんに喜んでいただくことは、当歳の和子のことでありますが、夜な夜な泣き叫ぶかと案ぜられましたが、夜中一回目を覚まして乳を飲むだけで、すやすやと眠っています。 私共に面倒をかけるよりは、むしろ私共を慰める大役を果たしています。子供達も天使の守護、母の祈り、今尚生きて子女らを守る母の霊魂を現実に信ぜさせられています。 今まで単に信条に過ぎなかった教理が生活の中に信仰されて行く幸福を味わっています。ただ 二十三年 ともに地上生活を許された私、子女らのいっさいを妻に任せていた私にはいまさら妻の細かい子女らへの注意を思わざるを得ません。 数日前から子供らの作った「おかあちゃんへ」という云う箱の中に入れられる手紙を見ますと「定期券のお金をください」「御飯をもう少したくさん盛ってください」というような要求から「明日学校へ着て行く洋服が汚いから洗ってください」などが認められ そうした母なきことに夜各自の反省、ことに小生への教示を子供らとともに喜び受けています。 ことに私の心を打つ一事は今尚子供らが便所から叫ぶ「おかあちゃん 紙持ってきて頂戴」の声ですが、誰しも嫌がる便所へのお使いを黙々と果たしていたであろう妻の尊い行いが私を教えています。終わりに望んで死亡の通知も為しえなかったご無礼にも関わらず伝え聞かれた皆様よりのご厚情を熱く感謝しています。 正しく神様が各位を通じて示し給うた御自愛に感激しています。 いまやいっさいのほかのものに煩わされず愛しうる妻、どこにも共ににいてくれる母が、私とそして子供らに現実の信仰として与えられたことを感謝しています。正に忍ぶべからざるを忍ぶべきし秋、この試練によって神と各位によりよき奉仕の全うせうる様祈ってやみません。                           敬具昭和二十年十月五日                     八代斌助       

新しい時代に向かって

6月の大空襲で、焦土と貸した神戸で 父が真っ先にした事は 教会の再建でした。 教会の親しい仲間を集め焦土の中から 建築に使える素材を集めて粗末な小屋を建てました。当時は釘も無かったので、焼け跡の材木やあちこちで集めた縄やハリガネを使ったと記されています。そして「神戸聖公会」と記した看板を立て 礼拝を持ちました。そして終戦を迎えたのです。その小さな大聖堂は まもなく何者かの手によって盗まれてしまいました。ある記録によれば、この教会を盗んだ人はその後発見されたのですが、その人達は盗んだ材木を使って、ガード下で天丼屋をやっていたそうです。父が友人とその店を訪問してみると、その奥さんが曰く、「宗教より今は飯の方が大事でしょう、どうぞ召し上がれ」と言われ天丼を食わされて、何も言えず帰ってきた、と記されています。戦争が終わったとはいえ、当時の社会情勢を窺い知ることが出来る記述です。父が身を持って示した実践の基督教はその不屈のスピリットとして絶望にある多くの教役者、信者達を勇気付けたに違いありません。しかしながら、父は「希望」という字のない世界の悲惨を終戦後も引き続き見なければなりませんでした。 戦後の混乱、戦犯人の裁判、胸をえぐるような痛みの中で 父は戦後日本基督教の最初の復興事業として、過去6年にわたり閉校を余儀なくされていた聖ミカエル国際学校を開校しました。望みもなく教育も受けられなかった在神戸の英米人子女の教育を復活したのです。校長には、父の友人であった、ミス・リーが就任しました。祝賀会に集まった子供や親たちは、感激に輝く目に涙をためていたと記されています。これは、戦後最初の「希望」の明かりでした。
ご承知のように先の戦争においては英米国が主要な勝利国でした。聖公会は 英国においては国教であり、米国においては The Episcopalian Churchと呼ばれて 米国上層社会に普及している信仰でした。戦後の日本に派遣された連合軍指令長官、マッカサー元帥も聖公会に属していました。戦時中、日本聖公会が国家権力に屈して消滅していたとしたら、戦後の日本の展開はまた違ったものになったのではないでしょうか。いずれにせよ聖公会を守りぬいた父は マッカサー元帥の信頼を得、親しく戦後の日本の展望を語り合いました(1945年10月)。 「君が書くものは何でも日本のためになる。」と言われて書き記した「戦いに克ちて」という書は 遺憾ながら発刊と同時に発売停止の処分を受けましたが、マッカーサー元帥との親交はその後の父の活動の大きな力となりました。1947年5月には、父は日本聖公会第22回定期総会で議長を務め、同年8月には、主教会議長(Archbishop)に就任しました。父が47歳の時でした。 その後 1948年(昭和二十三年)には、戦後初の公式の海外渡航の民間人としてロンドンで開催された全世界の聖公会の会議であるランベス会議に出席したのち、アムステルダムで開かれた世界教会会議(W・C・C)に出席し、平和親善の使者として日本の信頼の回復に勤め、また 戦時中分裂した日本聖公会の復旧と承認のために貢献することになったのです。
終戦後からランベス会議出席の頃の父は非常に多忙であったと思われます。聖公会での用語に、「聖別」という言葉があります。この「聖別」という意味は、一般の人には馴染みがないと思われますが、これは、この世的な物から決別して聖なる物になるという意味で、例えば、聖餐式でのパンとぶどう酒も また聖職に任命されるときや教会の立てられたときなども聖と俗を分けると言う意味で聖別と使います。聖なる物として分けられることです。主教会議長という立場は、主教や司祭などの職に新しく任命される人に対して、これを聖別します。また地方などに新しく教会が設立された時は、主教会議長がこれを聖別することにより、聖公会の正式な教会として認められることになります。父はこのような活動も担うことになりました。同時に、父は1946年には、7冊の本を発行して、出版による伝道活動にも力を入れていました。

家族のことについて

ここでは、多少私的なことになりますが、父の家族について述べさせて頂きたいと思います。
母、民代が天に召されたとき、遺児となった末娘和子(私)は、僅か六ヶ月の赤ん坊でした。父は 公務に多忙を極めながらも 長女道子や、教会の信徒の助けを借りながら、私を育ててくれました。アメリカからの救援物資のコンデンスミルクをどんぶりに溶かし、酒のさかずきでミルクを飲ましたそうで、みんながこの子は大酒のみになるんじゃないかと話したそうです。 物資のない折、おしめカバーは学位のフードを切って使ったとか、常に知恵と工夫とユーモアで子育てを楽しんだように思われます。しかしながら 平和のメッセンジャーとしての大任を背負って海外に使するとなると、幼い子供達の世話をし、留守を守ってくれる人が必要になりました。 父は教会の信者でこの戦争で夫を亡くした宮本富美子にその任を託しました。父が1948年、最初の渡航についたとき、私は三歳でした。富美子には私と三つ違いの娘、敬子がいて 敬子が母親を「おかあちゃん、おかあちゃん」と呼んでいたので 私も「おかあちゃん、おかあちゃん」と言ってなついたそうです。幼い子供達には母親が必要だーー父は大任を負って赴いた異国の空で 富美子との再婚を決意しました。こうして、1949年1月父は宮元冨美子と再婚することになったのです。冨美子はその後、私(和子)を自分の子と同様に育ててくれたと同時に父が亡くなるまで献身的に父につくしてくれました。

戦後の世界に使わされて

1948年4月、マッカーサー司令部情報部から最初の日本人として公式海外渡航許可が降りて以来、父はまさに東奔西走の有様でした。日本聖公会のこと、神戸教区のこと、そして何よりも母のない幼い子女らを残す憂いを未亡人富美子に託し出立の準備を進めました。
5月6日には首相と面会、 翌7日には、天皇陛下との謁見が許されました。そのときの様子は著書「戦後の世界をめぐる」に記されていますが、陛下への畏敬の念は並々ならぬもので、父が全きキリスト者であると同時に純然たる日本人である事を示しています。
父は今回の渡航の目的や二つの会議の内容を陛下に説明し、米国にも渡航する旨をお伝えしました。陛下は「日本が民主国家建設に尽力していることを米英の人々によく伝えるように」とおおせられ、また 英国皇帝への心こもるメッセージも託されました。皇后陛下からは「長い旅行です。 よく身体に気をつけなさい」とのねぎらいを受け、「腹のそこまでしみるありがたさ」と 表現しています。その後、マッカサー元帥との膝を交えて懇談し、元帥の社会各方面への理解、宗教に対しての理解に深い感銘を受けています。 父は、政治的才能の非凡なしかも近代得がたいステーツマンであるマッカーサー元帥 が占領下日本の最高司令官として与えられたことを感謝しています。父は同行の柳原,蒔田主教とともに5月12日、アメリカに向けたノースウエストラインで機上の人となりました。 多くの出会い、また旧交の喜びを持ち、21日 ニューヨークをたって英国へ。 数々の歓迎集会、また有名教会で説教、メッセージを送りました。 ニューカッスル、聖パウロ教会での説教はラジオ放送されました。その中で、父は戦時中、外人食料配達所や米英人礼拝などを通した米英人との友情を伝え、「このクリスチャンフェローシップが分裂せる世界を救うべき。7月4日、聖パウロ大聖堂の開会聖餐式にてランベス会議は正式に発会しました。世界から集まった300人余の主教たち、父はこの開会聖餐式にて補式を勤める栄誉に預かりました。父は「ただ身の光栄に畏れ、日本聖公会の祝福を節に祈る」のみでした。7月7日、全体協議会にて父がメッセージを送る日となりました。父は 戦時中の国家と教会の関係を述べ、その経験を通して「教会は単なる組織でなく、活ける有機体である。法権法規を停止しても、財産を失っても、いな建物がなくても存在しうる物であること、この世のいかなる権威もキリストの身体なる教会を支配し得ないことを体験した」と述べ、国家が宗教に介入したという戦争体験をもとに貴重な教訓を語りました。
7月13日、ランベス会議出席の主教たちはバッキンガム宮殿にて、英国王両陛下に謁見しました。カンタベリー大主教より紹介を受けた父は 出立前に天皇陛下より託された言葉を両陛下に伝えました。皇后陛下が「(天皇)はどうしていられますか」と問われ、父は「精神的にご幸福であられます」と答えました。皇后陛下はなお「日本の事情はどうか」と尋ねられ、父は「だんだんよくなってまいります。」と答えました。「本当によく来て良かった。よろしくおつたえもうすよう。」との言葉を拝し、父は大任を終え、感激のうちに御前を辞しました。
この旅中、三女、公子から手紙が届きました。
公子は 敗戦色濃くなった昭和19年、無情にも国から出された命令に、したがって上の二人の兄とともに学童集団疎開に送られた子供でした。 ところがその疎開の間に上の二人の兄とは引き離され、別の疎開地に送られました。その地に迎えに行った父は 整列させられた学童の中に娘、骸骨にも近い姿のわが子を目にしました。「もし自分に信仰がなければ この腕力と弁舌でだれかれの容赦なかった(攻撃した)であろう」と父は語っています。その公子から届いた手紙、そのとき、公子は6年生になっていました。
「お父ちゃんへお父ちゃん、お元気ですか。イギリスの生活は面白いですか。お父ちゃんの手紙が19日に着きました。私もうれしくて繰り返し何べんも読みました。読んでいると集団疎開にいたとき、お父ちゃんの手紙を喜んでいた私の姿が思い出されてきます。よくまああれだけ頑張りぬいてきたものだと自分ながら 感心します。と同時に、どんなことでもやりさえすればやれぬ事はない物だと考えることも出来ます。私は時々思うのです。私が集団疎開から帰ったときは、大変ひがんだ心を持っていましたが、また一面我慢強い辛抱強い心を持って帰って来たに違いないと思うのです。そしてこれも集団疎開に行って色々な苦労と戦ったためではないかと思われます。そしてまたこのような性質と心を与えられた私が、大変幸福なようにさえ思われるのです。お体に気をつけてください。さようなら                   公子より」
父はこの学童集団疎開を日本歴史最大の悲劇であったと言っています。そして集団疎開の経験を感謝に代えることの出来た娘の手紙に父は救われ感謝しています。
父はなおこの会議の中に 戦時中の合同問題で分裂した「日本聖公会の本来の組織への復帰」の宣言をランベス会議特別委員会に報告し、和解の問題に決着をつけ、日本聖公会の教会の再一致達成につき合議の賛同を得ることを求めました。また合同派の中で主教按主された7人の主教の聖公会主教としての承認を得ることが出来ました。この後アムステルダム世界教会会議に出席し、11月1日、帰郷いたしました。 この期間、説教182回、ラジオ放送114回にて先の戦争に対する謝罪と悲惨な戦争を超えたキリスト者の友好と平和のメッセージを世界に訴え、各方面から大きな反響を得ました。 戦時中、父が国家権力に抗して守り抜いた聖公会は図らずも戦勝国の宗教でありその力を背後に父が友好と和解を世界に訴えることが出来たことは まさに天からの見えざる力の働きというか、キリスト教のもつ普遍性ということを感ぜざるを得ないのです。

濠州への平和の旅

その後の父は、国内では教育活動にも熱心に取り組むようになり、また海外へ出かける機会も多くなりました。1949年、4月聖路加国際病院の理事長に就任、聖ミカエル託児所の建設、5月には、国際基督教大学理事および評議員に就任しました。 そして9月~12月まで アメリカ、カナダ、ハワイ、フィリピン、シャム、インド、香港を歴訪、香港とマニラでは服役中の戦犯人を慰問するなど 父は、国の内外ともに多忙を極めました。1950年、ラファエル幼稚園、オリンピア幼稚園を設立、このようにして、生涯に亘る教育事業を着々とスタートいたしました。そして5月~7月、濠州聖公会設立100年感謝式典に出席のため、オーストラリア、ニュージーランド、ニューギニアへ赴くことになりました。
第二次世界大戦で 多くの犠牲者を出したオーストラリアは 実は戦後の父の平和の使者としての海外訪問の中で最も苦しい旅となりました。著書「ああ、濠州よ」の序文に 父は次のように述べています。「戦後海外に使すること三度、去る七月交戦各国への友情の旅を終えました。 訪問の最後が 濠州であったのも懐かしい思い出の一つです。戦いに倦み疲れ、戦争否定の祖国の使者が最後の国、濠州で またしても戦争の知らせを耳にいたしました。 みんなが戦争をやめようとしているのに、なぜ戦争が起きるのでしょう。 なんとなしにこの世界には戦争を超える、否、戦争を生む、戦争以上の「悪」が存在しているとしか思われません。      ーーーーーーーーーーー中略ーーーーーーーーーー世界のキリスト教徒が、全世界の諸民族のおとうさん(神・筆者注)を心から尊ぶとき、世界の諸問題が解決されるはずだ」と父は伝えています。 この言葉はまさしく現代にも通じるものがあります。もし全世界のキリスト者が他民族の信仰を敬う気持ちがあれば、その後の様々な悲劇の多くが解決されたのではないでしょうか。
1950年 5月3日、ノースウエスト航空アラスカ経由の飛行機で、父はアメリカに立ちました。アメリカで多くの旧交を温め、ハワイへ、この地でも多くの公務と様々な友好の時を経て 初めての南半球へと向かいました。カントン島、フィージー諸島、ソロモン諸島。 これらの地域は日本軍が侵略し、残虐な行為を残した地域で 父は、謹んで命奪われた人の霊を弔い、戦争への深い謝罪を伝えました。 しかし この苦しい任務の中で父はしばしば「悲壮な物語の中にキリストの証」を見ました。オークランドの主教は下記のような言葉を伝えています:「君がお詫びを言ってくれて、かえってこちらがすまないと思う。ソロモン群島にたったひとつ何の危害も加えられず、ずっと礼拝できた教会があった。それはたった一人の日本士官が、教会だけはそのままにと厳命したためだった。」 父はこの言葉に涙の出るほどうれしかったと述懐しています。
その後、父は再び機上の人となり、ニュージーランドへ。 オークランドからクライストチャーチに飛び、百年祭式典に参加いたしました。ニュージーランドはかっての敵国でしたが、日本からは遠く 先の戦争での被害は比較的少なかったのでしょうか、おおむね気持ちの良い歓迎を受けています。二十七日(日)の説教はラジオ放送され、翌日の新聞に大きく報道されました。その記事を紹介します。「日本の主教は叫ぶ。 政治家よ、真理の霊に導かれよ。昨夜のビショップ八代の説教は、異常な反響をもたらした。 彼は云う、聖霊の性質は、主イエスの最後の晩餐の時の垂訓によれば、二つであって、一つは、真理の霊として、人を導き、真理を守らしめ、一つは慰めぬしとしてわれらを助け、力づけると。しかも注意すべきは、主イエスが聖霊の働きを定義して「かれはみずから語る能わず」と教え、まったき謙遜が、かれの性質なるを示し給うた。ゆえにかれは 謙遜ならざる人間を導きえぬのだ。見よ、この世界はいかに謙遜ならざる自信に満ちみちた政治家によって乱され、破壊されてきたことか。 ヒトラーのみならず、あらゆる全体主義国家の政治家がそれであった。 聖霊の導きを知らぬ政治家ほど危険なものはない。それはただにヒトラーとその同士への警戒だけではない。現在の政治家にも云われるところだ。よろしくわれらは、今週世界の政治家のために祈り、彼らが神の前に跪いて聖霊の指導を受け、政治するよう願わなければならぬと。」
この新聞記事には多くの反響を呼びました。 
平和使節として、海外の旅を続けること三ヵ年、多くの国々を歩き、ニュージーランドに来て初めて「平和」、「ああ、戦争が終わったのだ」ということを実感した父は 6月6日飛行艇にてこの地を離れ、オーストラリアへと向かいました。そして降り立ったシドニー。そこに待っていたのは想像以上の憎しみと新聞記者の攻撃でした。アメリカ、イギリス、ニュージーランドなどに比べ、オーストラリアは 大戦の爪あとが生々しくまた、折もおり、日本戦犯人裁判の只中でした。
戦後初めての日本からの訪問者に対する歓迎の心はこの国には全くありませんでした。父はただ「残虐な行為によって殺された濠州兵のため遺憾の意を表し、その遺族の方々に同情の心を表したい」と訴えました。ニュージーランドの大会に同席したシドニーのモール大主教はニュージーランドでの下記のような出来事を語りました。
「クライストチャーチの大集会に ニュージーランドの在郷軍人会長が来ていましたが、八代主教の講演の後、在郷軍人会で話すことを望まれました。講演を聞く前はむしろ憎しみを持っていたのが、講演を聴いて感激したから、みんなに聞かせたいというのです。この一事を考えても私共オーストラリアの者達は、心から同師を歓迎すべきだと思います。」
父はこの国に来て「赦し」ということがいかに難しいかを痛切に感じました。そして「誰もとがめられずの思いで、この国の旅をすごそう」と悲壮な決意をするのでした。モール大主教の好意的なメッセージにも関わらず、オーストラリアでの対日感情は厳しいものでした。 父は到着後、休むまもなく 会議、講演、講話に奔走しました。そして日夜、新聞には投稿が寄せられました。例えば、バソースト通信によるとーーバソースト在郷軍人会は 八代博士の集会に不参加の決議をした。 同会は 市民がこの集会にボイコットせられんことを希望するし、また市民は同士の歓迎会を開かぬよう要請したいと決議したというようなものでした。
ビルマ戦線俘虜殺害事件についての審判が 関心を集めている時でした。こういう問題への反応は父が歴訪した国々でそれぞれ違っていました。 父はそれらの様々な反応に対して 一貫して明確な姿勢で臨むべきであると伝えています。
第一 戦争への遺憾の意
第二 残虐行為はどの国の兵士によって行われても、責められねばならないこと
第三 審判への信頼
第四 審かれている者への同情ーーそれは自分の身代わりに裁かれているとの真心を自分が持つこと
第五 その家族への心からの同情と対策
そして このような中で大聖堂いっぱいに集まった会衆にただひたすら祈りをこめた心からのメッセージを送り、同じ信仰を持つ者の感動を共にしました。
6月9日(金)父は外務省の役人、および外務大臣と会見の時を得ました。外務大臣スペンサー氏に入国許可の謝辞と戦争とその残忍行為に対し陳謝すると、同師は「入国を許可した理由は二つあると述べました。 「一つは貴下が日本のキリスト教の代表的な人物であるということ。もう一つは両国の親善のためには、誰かが来るべきだが、それにはキリスト教の代表が良いことだ。」と述べ、日本の国民がどのようにデモクラシーを受け止めているかということを鋭く問われました。父は 一つの国民が民主主義化されるということは、そう簡単には行かないが、日本人が新しく学ぼうとしているので各国が忍耐の目で見守って欲しいと伝えています。そして 最初に海外に使した時、天皇陛下から受けた「自分と国民は、一生懸命民主国家を作るべく努力していると、各諸国民に伝えてくれ」との言葉を伝えました。静かに短い、しかし重要な会見をすごしたと父は感謝しています。
首都キャンベラでは 日本兵に惨殺された宣教師達の記念追悼式が行われました。在郷軍人らが反対の意を表して教会の周りに立つような殺伐とした雰囲気の中で式は始まりました。 父はこの式典の中で懇親こめて和解のメッセージを送りました。戦争によって殉教した宣教師らの死を深く悼み、遺族ための祝福を祈り、かの戦争に対して遺憾の意を表しました。しかし このような惨めな心持でありながらこの講壇に立つことが出来るのはただキリスト教徒の持つ素晴らしい交わりを信じるからだということ、そして戦時中、故国に帰る事が出来ず残された宣教師らとの交わりが、暗い戦時下の輝く光であったこと、そしてこの交わりの強さは 神より生まれるものであること、ともに主イエスの肉と血を分かち合う交わりであり、さらに代祷として神の前に昇りうるものであるからだと伝えました。そして このキリスト教徒の交わりを持って、この世界にある恨みの心を砕き、美しい平和な神の国を作りたいと心からの願いを訴えました。終わって外に出ると多くの人が握手に来ました。その中で一人の女性が夫に支えられて父の手を握りました。涙に震えていました。この人こそ看護婦、ミス・ヘイマン女史のたった一人残された妹でした。ミス・ヘイマン女史というのは戦時中、傷ついた日本兵を看護し、救ったがその兵士に辱められ殺された看護婦でした。その妹であるこの女性、フォークマン夫人は「今まで日本人を憎み続けて来ました。これからは友として愛していきます。神様の御国の来るように祈ります」といい、涙ながらに熱い握手をしたのでした。父はこのときの感動を次のように語っています。「なんという奇跡か。キリストの贖罪の愛に打たれる者に、敵も見方もない。ともに忍び、ともに赦しあうべきお互いの生活のみが、示されているのではないか。どんな困難が、どんな苦しみが、この濠州の旅の上に今後あったとて、この一人の女性の心からの赦しこそ、このたびの旅行の圧巻であり、「神には栄光、地には平和、主の喜びたもう人にあれ」の具現だ。ああ、主よ感謝したてまつる」
この苦しいオーストラリアの旅の中で、ブリスベン訪問と大主教ハリスとの再会はしばし喜びと憩いのひと時を父に与えてくれました。
ヒグマといわれたこの主教はケラム神学院の先輩で、身体も心も大きな人物でした。自宅にて歓迎の会を開いてくれたのですが、そこにも新聞記者からの電話がかかってきます。大主教はそれに闊達に応対しています。また 戦火の激しかったニューギニアの主教は殉教、捕虜などの問題を大きく受け止め、戦争犯罪に胸をいためて恐縮している父も、ここにいてはつかの間の安らぎを覚えました。ここにいる人たちにとって死後の世界はキリストの許に行くのだから、この世であろうが、先の世であろうが変わりなく、この世を超越していると父は感嘆しました。大主教の命で 翌日からは数々の礼拝、講話を依頼され多忙な時をすごしました。 最後に600人の男女学生のための大きなキャンプに行き、講演をしました。まるで聖霊に導かれたごとく言葉が流れ出て、父は「感きわまるほどの喜びを」感じました。「人間は、聖霊によらずして真理にいたることは出来ない。ヒトラーが、スターリンが真理としてつかんだものは彼らの私見に過ぎなかった。そして真理を求むる君達学生もひれ伏して神の前に跪くことにより、真理の霊に導かれるのだ」と訴えました。300名余の若者がサインを求め、感動を分かち合いました。その後、大主教との別れの時が来ました。「今度はどこで会おうか。天国で会おうか」と 大主教は云い、跪いて父が祝福を乞えば、その祝福の手は震えていました。なんじはわが悩みの日のとりでなりわが避けどころとなりたまえり      11日夕詩篇
ここでは新聞記事等の激しい投稿を紹介するのは避けますが、連日新聞をにぎわす批判や反感の報道は父の胸を痛めました。それらを心に深く刻みながら 父は20年前に自書「主イエス」の中に書いた「苦難は汝を聖成する」という言葉を彷彿するのでした。しかしながらこのような厳しい情勢の中で 濠州各教会宗派の支持は大きなものでした。プレスビテリアンはその大会で父の来豪を支持する決議を示しています。メソジスト教会も反対者に挑戦の意を示し、天主教も力強い弁護をくれました。「八代主教に反対する同胞よ。ちょうど戦争の始まる前、神戸にいたわれらの兄弟の一人が何かの事件で捕らえられた。聖公会の宣教師達は知らん顔をしていた。しかし ただひとり八代主教はこのオーストラリア人を助け、三日にして県庁につれ来たり、一週間にして解放の身と為した。その彼のために反対するのは当らない」
オーストラリアの諸教会が父の入国反対に対する挑戦によって、新しい意味でのエキュメニカルムーブメントをおこしていることに 父は感動を覚えています。
父の旅程は尚、アーミデール、ニューカッスル、バソーストなどのカウントリー地域から シドニーに戻り、メルボルンへと続きました。 オーストラリアの広さから考えるとこれらの活動は脅威的なスケジュールです。そしてその各地で朝から晩まで休むまもなく講演、説教、記者会見など続くのですから まさに人間技ではない、神の加護に他ならない働きであったと感じます。さてメルボルンは これまでの地域にもまして抗議運動の激しい地でした。列車の中で新聞記者に襲われ 聞かされたニュースは在郷軍人が八代を(日本に)返せと騒ぎ、メルボルン大聖堂のデーンには日夜脅迫の電話がかかるとの事でした。ところが皮肉なことに反対運動が宣伝効果を為して 教会、青年大会、大聖堂での大礼拝といずれも満堂あふれる人が集まり、平和と和らぎの福音をといた後は握手を求める人で長蛇の列が続きました。大主教邸に落ち着くと ロータリークラブのミッチェル氏が会見を望み、時代を先取りする力のある者と日本の将来、オーストラリアの現状などを語り合い、理解ある友を異国に持つ喜びをかみしめたのでした。
6月26日、これまでの旅をともにしてくれたキャノン・ワレン氏とともに機上の人となり、タスマニアへと飛び立ちました。ランチェストンでは学校での講和、もう帰路も近く、度胸もすわった父は、しみじみと語りました。
「日本人はそんなに残忍な国民ではありません。誰もが戦争は嫌なのです。日本では戦時中、集団疎開が行われました。子供と別れる親の心は悲痛でした。その時の歌を歌いますから、これが残忍かどうか、どうか人情ある国民のあなた方が聞きわけてください。」そういって父は「太郎は父の故郷へ」を歌いました。 不思議にも会衆の中の女達が泣いていました。歌詞の意味も分からないのに泣いているのです。子供と離れる母の苦しみ、子供を思う母の想いは万人に共通です。 父は涙する女達を見て自身が涙をこらえねばなりませんでした。ホバートで最後の講演を終えた父は メルボルンからシドニーに戻り、一路帰途の旅につきました。オーストラリアの反日感情は予想を超えた厳しいものでした。父の笑顔一つにも寄せられる豪州人の憎悪の感情ーー英国皇帝が迎え、マッカーサー元帥、極東委員長マコイ将軍が激励され、この国の政府が公認し歓迎している日本からの平和の使者を この国の国民は憎しみ、脅し、帰れと叫びました。 自分自身が軍国主義下の国家権力の犠牲となったにも関わらず、その戦争犯罪の罪を背負って贖いの旅をすることは どれほど苦しいものであったか、想像を絶するものがあります。しかしその抗議が激しさを増すほどに群集が集まりました。父は数々の説教、講和、ラジオ放送を通じてひたすら祈りながら全身全霊を込め、メッセージを送りました。 その度ごとに 激しい憎しみが赦しに変わり、和解と感動の涙があふれました。 それは奇跡でした。そしてその奇跡を起こしたものは、父自身の力によるものではなく 在天の大いなる神の力が注がれ、聖霊が降されたことによるものであることを 誰よりも父自身が感じ取っていました。著書の最後に「ああ、豪州よ」と題した章に次のような一節があります。
「自然は遠隔の地を嘆いているし、人間はだれかきて欲しいとさけんでいるお前(オーストラリア・筆者注)だもの、死に至る恐怖は深いものがあるのだ。荒くれ男の野人の君が、かかげているあの絵・・・ひとりの若い男が鍬を持って、妻の亡骸を自分で葬っている。しかし、その男のはるかかなたには、新しい現代都市の絵巻物が展開している・・・絵が物語るように、君が今日あるまでには、こうした愛情の犠牲の切なさをつみかさねたことだろう。 それだけに、愛と憎しみの交差するところ、キリスト教の真理すら盲目であることは悲しいことだが、俺にはわかる。さもあらば、わが友濠州よ、案外涙と温かい胸を抱いている君の上に、幸多からん事を祈ってやまない。」
戦争が終わって5年、世界は和解と平和を希求している時、その任を背負って世界を巡った父を諸外国は温かく迎えました。然し最後の訪問地オーストラリアの旅は 過酷なものでした。にもかかわらず、オーストラリアは父が終生愛した国であったと言います。なぜか。 私は 知性ある者の理性的な理解による赦しではなく、人間的な感情むき出しのオーストラリア人の心に沸き起こった素朴な赦し、聖霊が天より下りて成し遂げた赦しに 父は心打たれたのではないかと思うのです。 

神と人のために

オーストラリアから軍用機に乗って日本に帰りついた父は 疲労困憊の旅の疲れの中で、これまでの三度に及ぶ親善使節の旅を振り返り、次のように語っています。
「思えば終戦後、海外に使することみたび、日本が戦いを交えた国のほとんどをめぐって、親善使節の大任を果たしたことを感謝する。今はただ、使命をまっとうして、感謝の心にあふれるとともに、みたびの旅を通じ、主がわが上に為したもうみわざを讃えつつ、全世界が一つの心になって、天の父を拝するときの来るのを祈ってやまない」そして 「ああ、主よ。われをして大聖堂を作らしめたまえ。」と父は切に祈りました。清く美しい心を持って主を拝する場所、戦火に消失した大聖堂を建立することは復興時代の父の悲願となりました。
親善の旅の中で 父はこれからの日本にキリストの福音をつたえ、日本をキリスト教国とする決意を伝えました。 その決意を実現するため、父はその後の生涯を司牧と教育事業に捧げました。それは聖職者としてキリストの福音をとき、一人一人の人を救いに導くこと、そしてもうひとつはキリスト教精神によって立てられた学校の発展および創設でした。当時 神戸市生田区中山手3丁目、電車路からトーアロードを少し上がったところに 聖ミカエル国際学校(1946年3月開校)があり、道路沿いに教会が建ち、小さな運動場の奥に主教邸がありました。 主教邸といっても戦後建てられた安普請の家で 次々建て増しをされて部屋だけはたくさんありました。私の記憶はその頃から始まりますが、私たち兄弟だけでなく書生さんや身寄りのないおばあさんなどいつもたくさんの人が住んでいました。その上教会の方、学校関係の方など常に客人の多い家でした。日曜日の礼拝の後などは立ち寄る方も多かったように思います。このごろよく公私の別という言葉を聞きますが、父に限ってはプライベートの別はなく常に自宅の門戸を開いている牧師でした。自分の全生活を投じた司牧であったといえます。
教育事業ではその頃、立教大学、桃山高校、松蔭女子学院の復興に奔走していました。また 多忙きわまる中で父は文筆活動も忘れることはありませんでした。父は海外親善の旅から戻ると 「戦後の世界をめぐりて」「ああ、濠州よ」など数冊の著書を発刊していますが、それらが三笠の宮殿下の関心を頂くところとなり、殿下との親交を得る事になりました。そして1951年10月には松蔭短期大学の校舎の定礎式に三笠の宮殿下がご臨席下さり、オリンピア幼稚園、山手小学校を視察される運びとなりました。 戦争が終わってまだ6年、三笠の宮の来臨は関係学校の父兄や子女への大きな励みとなったに違いありません。このとき、父は岸田幸雄兵庫県知事,原口忠次郎神戸市長らとの談話の中で「次は何をしたいですか」と尋ねられて、「男子の学校を作りたい」と答えて、後の八代学院の構想がもくらまれたのでした。
この頃(1951年10月)父は神戸市垂水区の山に用地を購入いたしました。 もともと肉体労働をいとわぬ、いやむしろそれを楽しむ父は自ら陣頭指揮を執って勤労奉仕団を組織し、この電気も水道もない未開の山を開拓いたしました。資材を運ぶ道路も奉仕者達とともに自らの手で整備し、建設の途中で一部の建物が火災よって消失するなどの困難にあいながらも、多くの人々の勤労奉仕によって 翌、52年にはミカエル館、リー館、パードン館、オグルスビー館などの宿舎が完成し、酪農と農業を営みながら、朝夕祈りに包まれた生活を送る「聖公会センター」がスタートいたしました。(「八代斌助 思想と行動」P160)
この地は後にケラム修道院の分院が設置され、父は自身が学んだケラム神学院の創設者ケリー神父が「これといった教育も受けていない貧しい階層の若者を教育し、宣教師に育てる神学校を設立し、それらの神学生を育成する方法として修道生活をとりいれた」事から、自らも松蔭女子学院短期大学キリスト教科、その後松蔭女子学院大学の設立とともに大学に吸収されたキリスト教科と垂水の山に建立された「聖使修士会神戸修道院」を重ね合わせたのではないかと(同P118)考えられます。父が当初から そのような構想を持っていたのかどうか当時、6・7歳であった私は知る由もありませんが、小学校の遊び盛りにその未開の地、垂水の山で電気も水道もないキャンプ生活を家族や友達とともにした経験は子供の頃の忘れがたい思い出となっています。  
父はその後も教育事業への熱は強く 桃山学院、松蔭女子学院の発展に力をつくしました。
1957年再び、三笠の宮殿下ご夫妻を両校にお招きしています。
またNHKで仏教僧との対談やシリーズで人生読本の放送しています。
1958年には 再度ランベス会議に臨み 英国女王よりオクスフォード神学博士号を授与されました。
戦火によって消失した日から父の悲願となった大聖堂の建立は、1950年1月に開催された神戸教区第15定期教区会で聖ミカエル大聖堂設置に関する議案として提出され、2月4日から按主式献金が大聖堂建築募金として積み立てられることとなりました。(同P84)そして1957年9月29日には 定礎式が行われました。SPGの土地であった主教邸跡595坪の使用許可が出て、翌年9月カンタベリー大主教ジェフリー・フランシス・フィッシャー博士が来日しました。同月14日は、快晴に恵まれ、会堂には1200名の会衆が集まり 大主教によって聖堂、付属する洗礼盤そのほかの聖別が行われ、その後 大主教によって、聖餐式が行われました。その日の感動は当時、中学二年生(14歳)だった私の脳裏にも鮮明に焼きついています。
このように父の人生をたどって見ると いかにも父は敬虔なる牧者、謹厳なる教育者であるがごとく印象付けられるのですが、父の素顔は実際それとはかけ離れたもので 私が伝えたいのはそのような父の素顔であるように思います。父がその生活そのものが神の福音であり、公私の別なく常に多くの人に家庭を開放していたことはすでにお話しました。 家はいつもにぎやかで 子供や孫に囲まれていました。父は常にユーモラスで楽しい雰囲気を作る人でした。また 心は純真無垢で人の哀れを見ると滂沱の涙を流す人でした。教育事業に熱を入れながら、子供や孫の教育といったら もう滅茶苦茶でした。父は常に日本中を巡って旅をしましたが、それはレジャーではなく伝道の旅でした。そして常に一族郎党を連れて行きました。
私が小学一年生の夏休みだったか、休みになったとたん旅行に出ました。それが継続的な旅であったのか断続的な旅であったのか記憶にありませんが、夏休みが終わる頃 私は絵日記の宿題を少しもしていないことに気づきました。さあ大変と大騒ぎする私。父は夏休みの最初から最後までの日記をまたたくまに書いてくれて私はそれを書き写すだけでした。ところが数日たって母は学校から呼び出されました。日記の言葉がすべて旧仮名遣いだったのです。たとえば 「けふは 良いおてんきでした。 あしたも良いおてんきでせう」 という具合です。そして宿題をしなかった私は少しも叱られず、旧仮名遣いを使った父が母に叱られていたのを覚えています。
一族郎党を連れた旅ではいつも七輪とすき焼きの一式を伴いました。父は汽車の中でおもむろにそれを並べて火を起こし、すき焼きをはじめるのです。 当然車掌さんには注意されるのですが、そんなときにはいつも「まあ、あんたもここにかけなさい。」などといって巻き込んでしまうのでした。
父はまた 時折 みんなを連れて街に出かけました。お天気の良い日の夕方、元町通りを一団で歩いたりしたものです。ある日 帰りのタクシーを拾おうとすると、中から進駐軍の兵隊が出てきて立ち去りました。運転手は大声で叫んでいます。乗り逃げと知った父はすぐさまその兵士を追いかけ道の真ん中で格闘が始まりました。映画さながらの格闘をまえにして私たちは目を丸くしていましたが、道端で母は「お父ちゃん頑張って!!負けないで!!」と叫んでいました。 家にもどると母は、「お父ちゃんは 定期的に腕が鳴るんよ」と言って 父の豪腕を誇っていましたから勇猛な父もさることながら、母の肝っ玉も相当なものでした。
1960年3月、父は還暦を迎えました。大聖堂の地下で催された祝賀会には信者、求道者、また学校関係者などで満堂あふれるばかりの祝い客でした。赤いチャンチャコを着た父はその一人一人とかけがえのない 熱い交わりを持っていたのです。その後も 教育事業の推進、海外聖公会の行事に参加のため海外への旅、テレビやラジオの放送、地方への伝道旅行など寸暇も惜しまず奔走し多忙を極めていました。
1963年、私が立教大学に入学した年、父の念願であった男子高等学校に文部省の認可が下り、八代学院高等学校が開設されました。戦後のベビーブームの子供達が高校を受験する時期でした。中学浪人を出してはいけないと念じての高校開設でした。八代学院は長く聖公会センターとして使われてきた垂水の山に設立されました。僅かな校舎と素朴なチャペルの山の中の学校でした。 同年8月、その設備を整えるために国際ワークキャンプが開催されました。米国、カナダから集まった聖公会信者の子女、そして立教、桃山、平安女学院などの学生、 50人ほどが垂水の山に集まりました。日本人の私たちにも五右衛門風呂と藪蚊との戦いである生活は大変でしたから 当時の米国、カナダの学生にとっては相当な打撃であったに違いありません。私もそのキャンプに参加しました。 不便な生活、激しい労働。不満も出ました。そんなある日、父が大量の食料を持ってキャンプ地にやって参りました。そして労働奉仕の陣頭に立ち、一輪車で軽々とレンガを運びました。参加者の一人のアメリカ人女子学生が 私に言いました。
「私は炎天下、シャツ一枚になり、一輪車でレンガを運ぶアーチビショップを見たことがない。貴方は自分の父親の偉大さを認識すべきだ」と。。。
そのキャンプに参加した日本人学生のほとんどが未信者でした。 ある日キャンプの中の一人が受洗したのです。 それは参加者にとって最も大きな出来事でした。 そしてそれはまた父にとっても最もうれしいことでした。
その後の父は以前にも増して教育に情熱を注ぎました。
1964年、聖路加看護大学の開設、1966年には松蔭女子学院四年生大学誕生。桃山学院大学に新設部(社会学部)誕生、翌67年には宿願八代学院大学が遂に認可されました。また 数々の幼稚園設立、各学校の設備に充実など止まることのない働きでした。 また海外に向かっては 63年全世界聖公会会議に出席のため、アメリカ、カナダを訪問、64年 Wider Episcopal Fellowshipおよびランベス会議最高顧問会議出席のため訪英、65年韓国聖公会歴史的聖儀に出席、また 海外から多くの要職にある聖職者の訪問を受けました。
「八代斌助著作集」をはじめとする多くの書物も出版しました。 新聞での執筆、ラジオ、テレビなどの放送番組でも講話しました。 
まさに人生の実りをまっとうせんとするこの頃、父には大きな苦難が 与えられました。一つは弟、武の突然の病気でした。武は民代亡き後、再婚した富美子との間に生まれた末の子供でした。
武は1967年3月ごろ肩に痛みを訴えて医者を転々としましたが、回復せず、京都府立大学付属病院の診察を受け、不明の病気で入院しました。 様々な検査をしている間にも筋肉が次第に萎えて行きました。筋ジストロフイーないかと思われましたが、確かではありませんでした。 二年くらいの命ではないかと診断されました。父の嘆きは悲痛なものでした。長く母親に任せきりにした愛息を襲った予想もしなかった艱難。しかし父は公務に忙しく思うように見舞うこともできませんでした。そして今この子に神を、キリストを伝えねばならないと考えた父は 毎日、手紙に思うところを記し、病院に届けさせました。血の出るような祈りであったと思います。そしてこの不明の病は また謎のように回復に向かったのです。毎日届けられた手紙は一冊の本になりました。その本の冒頭に京都府立大学付属病院の諸富教授は次のように述べています。「ーー今の学生運動を見る時、一人の子の病について、かくも宗教界の一人者であられる人が悩まれていることを知った医学生らは、彼らの運動が医の本質に如何にかけはなれたものであるか、人であるならわかるであろうーー。」と述べこの著書が 信者のみならず 政治家、医師、医学生etcに広く読まれることを望んでおられます。
弟は奇跡の回復を遂げました。それは父と母の愛と祈りの為した奇跡であったのだと思います。
もう一つの父が受けた苦難は 学園紛争でした。父が心血注いだ学園から父はその命を奪うほどの苦しみを受けることになるのです。68年6月、八代学院がストライキに入りました。同年11月 父は吐血して 健康保険中央病院に入院しました。無病の豪傑と思われていた父の入院は衝撃でした。しかしその病気が二年後に命をとるものとなる事は誰も想像しなかったでしょう。 その年のクリスマス深夜ミサは看護婦に付き添われて執り行われました。そして翌年1月にはすでに公務に戻っています。
父にはもう一つの悲願がありました。それは国家権力によらず、真に信仰と教義の理解に基づく教会の再一致でした。そしてカトリックとそこから分裂したプロテスタント諸派をつなぐ橋となるのは聖公会を置いてほかにないと信じていました。その一つの象徴のように 1970年大阪で開催されたEXPO万国博覧会にカトリック、プロテスタントとともに一つのパビリオン、キリスト教館を出すことになり、父はその館長となりました。69には4月には起工式 70年7月キリスト教館は 「目と手」をテーマに設立されました。皇太子夫妻、三笠の宮殿下をお招きすることも出来ました。
その間も桃山学院本部封鎖、八代学院処分問題に対する事務局職員のハンガーストライキなど 父の胸を痛める紛争は続きました。父はそれに限りない愛を持って答えたと 「八代斌助回想録」には多くの方が伝えています。 そしてこの頃すでに通常の人間では立ってもいられなかったであろうと医師が診断するほどの癌がその身体を巣くっていたのです。
1970年9月7日、喀血にて倒れ神戸健保中央病院に入院しました。癌性腹膜炎と診断されました。医師にその知らせを受けた時、次のように述べています。
「今日の医師たち 言葉のみ勢いあれど、そのまなざし、憐憫の心に潤いて、余を慰むるがごとし、おそらく病の容易ならざるをおもわしむるなん」
神戸健保中央病院は神戸でも古い小さな病院でした。 主治医はまだ若い医師でした。 父の病気が深刻な物であると知り、聖路加病院院長の日野原先生をはじめ 多くの大きな病院の医師が病院の移転を勧めましたが、父は「縁あってこの病院に来たのだから 私の命はこの人にあずけたい」といってお断りしました。病状の悪化は急速でしたが、すべてを神にゆだねたのか苦しみには耐えていましたが、常に穏やかでした。ある時若い主治医の先生が検診に回って見えた時、父は「君には何もしてやれなかったねえ、わしが死んだら わしの身体を君に上げよう。解剖してこの後の医学に役立てなさい」と言いました。若き青年医師は 泣いていました。
三和銀行の当時会長であった渡辺忠雄氏からその頃、癌に有効な治療法として話題になっていた丸山ワクチンを希望なら入手しますというお知らせがありました。母は医師と相談の上、そのお申し出を断りました。何を使っても生きのばす事ができるのならと願った私は なぜお断りしたのかと母に尋ねました。母は「今、世界中の人が一人の宗教家の死を見つめているのです。父の死を汚すようなことをしてはいけません」と答えました。どのように死ぬかはどのように生きたかの証なのだと私はその時初めて理解しました。 
父が入院してから天に召されるまでの一ヶ月間、病室はただ聖歌と祈りに包まれました。 父は訪れる人、一人一人に祝福を与えました。 神のもとに旅立つ最後の祝福が、不肖の娘であった私、和子とその家族に与えられたこともここに付しておきたいと思います。       
      

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